「1.作曲をみつめる」カテゴリのアーカイブです。
葉月ゆらさんとのコラボレーション (2008年12月05日)
この秋、歌手の葉月ゆらさんからコラボレーションのお誘いを頂きました。 発表されておられる作品群をお聴きしたところ、多彩かつ表情豊かで伸びやかな歌声がとても素晴らしく、喜んでご一緒させて頂いた次第です。 そして先日、無事に一曲完成しました。ぜひお聴き下さい。
『輝石(きせき)』 MP3(5.2MB)演奏時間 4分31秒
葉月ゆら(作詞・歌)/ものえ(作曲)
→collabo/kiseki.mp3
新曲が出来ました『紺碧に浮かぶ想い』 (2008年08月05日)
曲名は『紺碧に浮かぶ想い(こんぺきにうかぶおもい)』です。
『紺碧に浮かぶ想い』 MP3(8.9MB)演奏時間 7分47秒
→konpeki_ni_ukabu_omoi.mp3
今回使用した音色素材は、オーケストラ(QLSO Goldを使用)、シンプルなシンセ音、ノイズによるリズムで、いつも同様にPC上で打ち込みと編集を行いました。
新曲が出来ました&考えごと (2008年02月29日)
曲名は『越後獅子の庭(えちごじしのにわ)」』です。
『越後獅子の庭』 MP3(7.6MB)演奏時間 6分37秒
→echigojishi_no_niwa.mp3
全編にわたって執拗に変奏を続ける三味線パートと、不規則に停滞と変化を繰り返すリズムパート、これらの絡み合いを通じて自分流の時間構成を模索してみた曲です。
「帰るべき初心」のひとつ (2007年04月26日)
子供の頃に好きだった遊びのひとつに「レゴ・ブロック」があるのですが、今回はその時のことを少し振り返ってみようと思います。
気の合う友人とたまには一緒に楽しむこともありましたが、大抵は一人で黙々とブロックで遊んでいたものです。
「家をつくろう」「電車と駅にしよう」「宇宙の乗り物だ」などと、ぼんやりとした枠組みを想像しながらブロックを手にして組み合わせ始めます。
ブロックによる造形が、手の中で“自分の想像を超えながら”成長(生長)して行くことの不思議。そして、その状況に没頭し一体化する興奮。
仏つくって魂入れたい (2007年04月01日)
昨今のテクノロジー進歩によって、音楽を形作ることがとても容易になりました。コンピュータ上で音素材の操作と評価というフィードバックを続けることにより、音楽が生み出され得ます。
実際に音楽として目の前に現れるために必要なプロセスや労力(各種技術、演奏人脈、制作環境など)は、現在では相当少なくなっていますし、DTM(デスクトップ・ミュージック)という単語にはそのことがよく象徴されています。
音楽を形作ることが容易になった、プロセスが簡便になった、そのこと自体はとても喜ばしいことですし、私自身、そのことの恩恵をタップリと受けている一人です。
しかし、その恩恵の影で露わになってきたこともあります。ネット上を中心に散見される批判的な言説として印象的なのは、言葉は少々悪いですが「“音楽をでっち上げること”もまた容易なことになったのだ」という指摘です。
PCで作曲する者とっての「楽器」 (2007年03月25日)
従来の「作曲(エクリテュール)→解釈・演奏」をPC完結型の音楽(DTMなど)にあてはめてみると、作曲家がエクリテュールを経ずに直接自らを解釈し演奏する、そんな姿を想像することが出来るでしょう。
そして、「何を使って演奏しているか」と問うならば、当然「PCを仮想楽器としてそれで演奏しているのだろう」と言われそうですが、ここで一歩踏み込んで「スピーカーを演奏しているのだ」と言ってみます。
ミックスダウン時の音の質感 (2007年03月11日)
以前にも指摘されたことがあったのですが、私の曲の2trミックスは「音質がモワッとしている」という傾向があります。
無理やりに良く言えば「マイルドな耳ざわり」と言えなくも無いですが、要するに「ガツンとエッジの効いたパンチのあるサウンド」の対極であり、物足りないということになるでしょう。
では、なぜこういった音質になってしまうのかを考えてみると、そこには自分の作曲スタイルと密接な関係があったことに気付きます。
膨大な“作曲家の意思”を前にして (2006年11月05日)
ナクソス・ミュージックライブラリを聴き浸るときが目立つ今日この頃です。音楽の百科事典を目指すというだけあって、そこには、いわゆるメインストリームに位置する作曲家のみならず、ローカルであったり折衷的であったりして音楽史的に省みられる機会の少ない作曲家の作品も数多くあります。
そして、そういった隠れたシリアスミュージックに触れることが、今の自分にとっての大きな励みになっていることに気づかされます。大小様々の「こうでしか在れない姿」をした音楽ひとつひとつの姿は、まるで森の木々のように屹立し強く佇むかのごとくです。そこからは、作曲家における内的必然性を真摯に表現し続けることの決意を感じる思いがします。
言葉に導かれる音楽記憶 (2006年09月27日)
「個々の音楽パーツを表現する言葉」が喚起するイメージを、おもちゃのブロックのように組み立てたり、色紙を組み合わせてタペストリーをつくったりするように扱い、新たな音楽を構成するという方法。
「粘っこいブルース・フレーズ」、「矩形波によるピコピコサウンド」、「ノン・ダイアトニックなトライアドによってハーモナイズ」、「木管楽器が醸し出す牧歌的な何か」、「ポリ・モーダリティーに偶発するコーダル感を尊重する」、「踊りづらいワルツ」、etc.……。
要素や素材を絞った環境にて (2006年07月01日)
先日、アフリカの民族楽器カリンバの「組立キット」なるものを購入。久しぶりに簡単ながらも工作を体験しました。
仮止めした金属鍵の下に支点となる金属棒を潜り込ませる、という作業に若干手こずりながらも、予想より早く無事に完成。
さて、ここからが要の作業でありお楽しみの「調律」です。カリンバは必ずしもひとつの音律に固定する必要はなく、演奏ごとに色々と変えてみることが出来るのが良いところです。
DTMの比喩を想う (2006年06月19日)
他愛の無い想像。コンピュータ上で音楽を生み出していく形式(いわゆるDTM)は、例えるならば版画と似ているのではないだろうか。
原盤となる版木にあたるものは、DAW(シーケンサや各種編集ツールの総体としてのコンピュータ)上の情報であり、それを元にした無限の「最初の一刷り」であるミックス後のWAVEファイル(波形データ)が、デジタルコピーを介して流布していくと捉えられないでしょうか。
“版木”に手を入れられるのは、DAWを所有し操作する作曲者だけということです。実際の版画とは違い、何枚刷るかを作者が管理できないが、流通量のレアさが作品の価値には関わらないという点が、デジタル環境ならではという感のするところでしょう。
アートにおけるイメージの具現化 (2006年06月07日)
アートにおけるイメージの具現化とは、イメージの忠実な具現化ではなく、イメージとの戯れの結果生じる足跡のことなのではないか、ということ。
人は多く、「イメージが湧くことがあっても、それを具体化させる方法や技術がないので作品を生み出せない」と言って悲しみます。
アーティストがイメージを具現化させようと試みるときの在り様とは、彼らの想像するようなものなのでしょうか。
つぶやき的な (2006年06月03日)
自分にとっての作曲という行為が、イマジナリーなものの音響表現としてではなく、作曲装置(楽器などの演奏環境など)によって規定される枠内での可能性表現に転倒してしまっているのではないか、という自問。
と同時に、その転倒状態は創作の足場としての安全地帯をもたらしてくれているのかもしれないという事実。
読書三昧 (2006年04月08日)
ここしばらく、音楽に関する本を読む機会が少なかったのですが、脳科学などの別分野の本を通じて、そこから興味深い音楽書籍に出会うことが増えてきました。おかげで近頃は時間が空いたら読書三昧という状況です。
まずは文章の世界から (2006年03月25日)
音楽であれ何であれ、作者が「出来た(もう、これでいい)」と思った時点のものを作品として提示するというスタイルについて、私自身あまりにも当たり前に思い込み過ぎていた気がしています。
「出来た」と言った瞬間、自分の内面のある部分からその作品が“切り離される”という感触があり、その離脱感覚というか、自分の作品との心的な距離感を重要なものだと考えているようです。
そしてその距離感は相当に遠いものとして捉えています。
和声症候群 (1999年10月22日)
和声と言ってしまうと、ある限定されたものを想像してしまいますが、この場合の和声とは「音の集合の移ろい」という大雑把なものだと考えてください。
十代以前の頃の私は、音楽を聞くときにはジャンルに関わらず、この「音の集合の移ろい」に耳が向く傾向がありました。移ろう様子に美しさを聞き、感動してしまう訳です。決してリズムや特徴的なフレーズ(メロディー等)を蔑ろにしているわけではないのですが、当時感動していたメロディには、常に印象的な和声が伴っていた様に思います。
呪縛に想う (1999年10月22日)
以前、私が作曲をしていて思い煩う事が多かった呪縛と言えば、「表現したいことがあるのか」というものでしょう。これはどういうことかと言いますと、まず頭の中に明確なイメージ(音的なものに限らない)があって、それを音で表現しようと勤めるべきだという、そんな呪縛です。