奈良美智氏への随想

2006年06月25日、ドキュメンタリー番組『情熱大陸』を観る。出演は美術家の奈良美智氏。

以前から私は、観る側に“大人の念”がこめられたような子供の眼差しを向けてくる、そんな少女の絵が印象的な画家だと感じていました。今回の番組を通じて氏の留学時代の内面的な孤独状況や現在の日常などを知るにつれ、私なりに色々と納得できたり感想を持ったりしましたので、そのようなことを少々書いてみます。

画中の少女の眼差しは、それを生み出した作者の内面との円環を形作っているのでは……。眼差し、眼差される、作者と少女。「描きたいから描くんだよ」というその純朴な動機を動機たらしめているそもそもの“何か”、“渇望”、さらには“怖れ”。これらが円環に勢いを与えてゆきます。

「創造の部屋」としての氏の孤独。そこにおいて、そんな勢いを持った“円環そのもの”がスピンアウトしてくるものとして作品が生まれているかのようです。

氏は「まとめようとすれば最初からまとめられる。でもそれでは面白くない」と言い、試行錯誤のプロセスそのものを体験として真正面から味わい、そしてその過程という時間が少女の姿として定着される──。

少女の眼差しに目を奪われているとき、我々は少女から「作者との時間の記憶」を聴かされているのでしょうか。思うに、その“作者との時間”にあった出来事は、少女という無垢性の上だからこそ成り立つような、真剣さと残酷さの同居する、心の丁々発止なのかもしれません。

と共に、近年の「少女の眼差しの変化」は、氏のコミュニケーション環境の変化に伴う必然的な流れがシンボリックに顕れていたのだなと納得もしました。

これまでは、恐れや不安、不満、鋭角的な気分などの表象、そういったものが真っ先に観る側に飛び込んできて、その奥への意識を持つことを拒むかのような迫力すら感じたものですが、近年は「静けさ」や「待つ」という空気を感じさせられるのです。

この「待つ空気」というものに、氏にとっての他者というものが今までとは違った色彩を帯びてきている、ということが端的に示されていると思われてなりません。先の“円環”の外径が外部へとにじみ出し始めているのでしょうか。

いみじくも氏が述懐していたように、「自分は画家を職業としてではなく、生き方として選んだ」というその足跡の現出として、その「眼差しの変化」は人間奈良氏の変化として象徴的だったのです。

「昔、描けなかったものが、今は描ける。昔、描けたものが、今は描けない」

とつとつと語られる言葉からは、生身の表現者としての危うさやスリルが感じられ、そこに嬉しさを覚えてなりませんでした。それは、「こうでしか在れない」という強度を体現している人を知った際の、私なりの喜びの反応だったようです。