和声症候群

和声と言ってしまうと、ある限定されたものを想像してしまいますが、この場合の和声とは「音の集合の移ろい」という大雑把なものだと考えてください。

十代以前の頃の私は、音楽を聞くときにはジャンルに関わらず、この「音の集合の移ろい」に耳が向く傾向がありました。移ろう様子に美しさを聞き、感動してしまう訳です。決してリズムや特徴的なフレーズ(メロディー等)を蔑ろにしているわけではないのですが、当時感動していたメロディには、常に印象的な和声が伴っていた様に思います。

そんな訳ですから、当時の自作曲には和声先行の曲が非常に多かったです。まず和声を作って、その空間にメロディーを紡ぐ、いわゆるコード先行型の作曲をしていたわけです。

この作曲のメリットは、今思えば絶大なものがあったと思います。和声の微妙な色彩感や大胆な対比、そしてこれらのバランス感覚の価値に気付けたと思っています。しかし、その後様々な壁にぶつかり、和声症候群を意識し始めることとなります。

始めは「音の集合の移ろい」として全体を指す漠然としたものが、和音の連続として具体化され、作曲においては「和音パート」として要素の一つになってしまいます。端的には「メロディ」「和音」「リズム隊」という、硬直した要素による作曲にはまってしまいがちになったのです。これには、理屈だけで音楽を把握しようとする悪癖も関係していました。

これでは「フレーズの絡み合うさまの美しさ」を始めとする他の様々な美点や、その相乗効果の素晴らしさに気付くはずもありません。現実に、音楽学校時代にこの殻を破ろうとして苦労する事になります。自分で把握できたと思っていたことは、実は枠を作っていただけだったということです。

音楽は耳だけで感じ取るのであればただの音なのであって、そこから聞き手の感性によって音楽現象にまで高められているのだと思います。そうであれば、感性とのフィードバックを持たないある種の知性は、慎重に避けるべきだと考えざるを得なくなるのです。つまり私の場合、これが和声症候群を生み出したのだと思えてならないのです。

私にとって症候群とは、その要素を持って自分の作曲に限界を設ける事態なのだと、今になると思えてきます。

現在も和声症候群が顔を出す事がありますが、自覚的になって来ただけましだと慰めています。皆さんも心当たりはありませんでしょうか。ともあれ、今後も私は何かしらの症候群に見まわれ続けるのでしょうが、出来るだけ自覚症状に敏感でありたいと思っています。そして、そこから新たな気付きを得たいものです。