膨大な“作曲家の意思”を前にして

ナクソス・ミュージックライブラリを聴き浸るときが目立つ今日この頃です。音楽の百科事典を目指すというだけあって、そこには、いわゆるメインストリームに位置する作曲家のみならず、ローカルであったり折衷的であったりして音楽史的に省みられる機会の少ない作曲家の作品も数多くあります。

そして、そういった隠れたシリアスミュージックに触れることが、今の自分にとっての大きな励みになっていることに気づかされます。大小様々の「こうでしか在れない姿」をした音楽ひとつひとつの姿は、まるで森の木々のように屹立し強く佇むかのごとくです。そこからは、作曲家における内的必然性を真摯に表現し続けることの決意を感じる思いがします。

ライブラリーの中には技術的にシンプルであったり、ある種のたどたどしさすら感じさせる曲もあります。また、近代以降のどの年代においても、交響曲は作曲家のひのき舞台であるかのように、多様な輝きを見せたり、光を吸い込むような漆黒でもって、時に圧倒的に、時にひょうひょうと聴き手に迫るのです。

もちろん、今の私に響いてこない音楽もあります。その作品が生まれた背景や作曲家にとっての必然性を知ってもなお、音楽に興味が持てないものもあります。しかし、私がどう感じていようが、または全く関心が無かろうが、その音楽は第一の聴き手である作曲家によって聴かれ、生み出され、人々に聴かれることを待っています。

まさに森の木々のように屹立し、その樹の一本一本には担い手の意思が込められています。この森を行く森林浴は作曲をする者に問いかけをし、自省を促してくるようです。「音楽が生まれつつある現場に没入し楽しめているか」と。

多様な環境に惑わされず、自らの音楽の第一の聴衆として自らに真摯に向かい合いたいものです。