「帰るべき初心」のひとつ

子供の頃に好きだった遊びのひとつに「レゴ・ブロック」があるのですが、今回はその時のことを少し振り返ってみようと思います。

気の合う友人とたまには一緒に楽しむこともありましたが、大抵は一人で黙々とブロックで遊んでいたものです。

「家をつくろう」「電車と駅にしよう」「宇宙の乗り物だ」などと、ぼんやりとした枠組みを想像しながらブロックを手にして組み合わせ始めます。

ブロックによる造形が、手の中で“自分の想像を超えながら”成長(生長)して行くことの不思議。そして、その状況に没頭し一体化する興奮。

頭の中で想像していただけでは決して見ることが出来なかったであろう、その姿。そう感じさせる造形が目の前に現れたとき、この上ない満足感を味わうことが出来るのです。

想像から創造を経て現実へ。認識の跳躍。その感動と興奮を体験出来たかどうかが、そのブロック遊びの体験価値の分水嶺になっていたと感じています。

ですから、途中で「ブロックで何をつくっているの?」と問われても、私は答えを持っていませんでしたし、遊んでいる最中にそう問われると気恥ずかしさや困惑を強く感じました。

そこでは、目的とする造形は自分にも分かっておらず、明確だったのは、その“未だ見ぬ姿”を自分の手で形作り見てみたいという欲求のみだったからです。

「剥き出しの感性と欲求(欲望)でもってブロックと向き合っている内面」を冷静に覗き込まれている、そんな状況だから羞恥心が沸き起こっていたのだろうと今は思えます。

さて、実際にブロックで造っていた数々の造形の中で、特に記憶に残っているものとしては「船(人工島)」が挙げられます。

これは、船と言っても水面を進むための流線型スタイルなんかは全く無視で(笑)、ほとんど「動く浮き島」状態のものでしたし、実際その後は「島そのもの(でもなぜか移動式)」を造ることが多くなって行きました。

この造形だと、海という外部と島という内部との間にハッキリと線が引かれることになります。そして、そういう条件の元で島の造形や建造物等を想像しながらブロックを積んで行き、さらには「護岸や埋め立て工事によって島が拡張される」という様相も呈してきます。

ちなみに、この場合の外部とは、西洋絵画で言うところの「描かれた背景(環境)」ではなく、日本画における「描かれない空白(無)」に近いものだと感じています。

つまり、島が依って立つ環境としての海ではなく、「全く何も無い」という象徴としての海(外部)であり、島そのものが抽象的に自己完結していることを示しています。

そんな島が環境に左右されることなく自律的に姿を生長させて行き、そこに無二のフォルムが形作られて行くのです。

このプロセスにおいては、島の構成や形式があらかじめ決まっていることはほとんど無く、強いて言えば「どこかに港がある」という程度にとどまります。

ときには「感覚的にビビッとくる形」かどうかで島を変形させたり、「こんな場所にビルを林立させちゃったりして」などと日常の価値や文脈との距離感を意識したりと、“外部によって”隔絶された中で、ブロック島が私を通じて自己増殖のような成長を続けるのです。

こうして書いていると、作曲中に頭の中と現実の音とのやり取りを通じて曲のフォルムを成長(生長)させて行く時に感じている感覚と、何だかほとんど同じだったんだなと再認識する思いがします。

これは、あらかじめ完成形を明確にしてそれを忠実に形作るという作曲方法や、「イントロ─Aメロ─Bメロ─サビ…」といった形式(楽式)をあらかじめ決めておいて、そこへ内容を流し込むといった方法とは違ったものです。

言うなれば、内容を模索してそれが形作られる結果として、その内容が収まるべき姿・フォルム(聴き手はこれを形式と捉えようとする)が感じられて来るようなもので、にわとりとタマゴのような関係でもあるように感じます。

(これは、いわゆる「聴取の枠組みとしての形式(楽式)」という概念を応用して把握するより、むしろ形態(ゲシュタルト)の生成と呼ぶべきものとして捉えるべきなのかもしれません。要再考)

作曲においては、形式(楽式)は作品に前もって在るのではないということを忘れてしまうと、つい形式を鋳型のように用いてしまいがちですし、私もそういう作曲を数多く重ねても来ました。

ブロック遊びで物足りなさを感じた時とは「実在物を鋳型にした劣化コピー」をつくってしまった時であったように、自身の作曲で物足りなさを感じる時にはフォルムに対して同様の思いを抱くようです。

目の前の曲との対話を密にし、曲が育って行きたがっている方向を敏感に感じ取りながらフォルムを形作って行きたいものです。

今回、私にとって「初心に帰れ」という言葉が指し示すことのひとつを、ここら辺りから見つけ出せたような気がしています。