PCとシーケンサを一新(後編)

※このエントリーは、「PCとシーケンサを一新(前編)」の続きです。

シーケンサ(シーケンス・ソフト)はDTM(DAW)環境の土台を成すもので、ことPCで音楽を制作する際には、鳴り響く音楽と自分とを結ぶ、ある意味で鍵盤以上に重要なインターフェースです。

つまり音楽制作の中核(コア部)なわけで、シーケンサの乗り換えとは、極端な話し「永年使ってきた楽器を持ち替える」ような出来事です。

そういう事情もあって今まで躊躇していたのですが、次なる新たな音楽制作環境に移行するにはどうしても避けては通れない道ですので、新たなシーケンサ探しが必要になってきます。

今までの環境で行っていた作業と同様のことが出来て、欲を言えば以前の不満を解消してくれそうな、そんなシーケンサをあれこれ探し、最終的にはSONARというソフトに決め、そしていよいよ新しい環境で習作を作り始める段階に入っていったのでした。

さて、新しいシーケンス・ソフトに慣れていく中で大きな部分を占めているのは、以前のソフトで行っていた処理や手続きと同等のことを新ソフト上でも出来るように調査し、習作を通じてそれを習得することです。

新旧の各ソフトには、それぞれの編集の流儀といったものがありますので、全く同じ操作方法や編集手続きを望むのは無理なことです。

ですので、そこには当然、ソフト毎に異なった設計コンセプトから生じる“数々の違い”が立ちふさがってきます。それぞれの作業結果は同じでも、そこへ辿り着くまでのプロセスは全然違うという、そんな違いの数々です。

ある目的地(作業結果)への新たな道を発見し、それを理解・習得するという過程では、数々のストレスや達成感、そして安堵感が訪れます。これはこれでとても楽しく、好奇心をくすぐられるものです。

さて、例えば、旧ソフト上で「ある編集画面でショートカットを交えながら音符の長さをマウス・ドラッグで調整する」という作業を行っていたとします。

新ソフトでも同じことが出来るのか、もしくは似たようなことを行うにはどんなプロセスを辿ればよいのか等について、マニュアルを参考にトライすることになります。

そうして、幸いにして同程度の労力と手続きでその作業が可能だとわかったとします。ですがしかし、そこでなぜか、ある種のストレスや物足りなさを感じる場合があるのです。

上の例で言うと、新ソフトでも「任意の音符長へマウスで迅速に編集する」という目的・要請を満たすことが出来ると判ったのに、なぜかそこで不満を感じるというわけです。

ちなみにこの例に限らず、それは大抵些細なこと、言うなれば「別にこっちの方法でも同じことが出来るじゃないか」と、自分でもツッコミを入れたくなるようなことだったりします。

そこで気付いたのは、旧ソフトで行っていたその作業とは、編集結果を求めるための単なる手続き手段だったのではなく、実は、その作業を実施し体験することそれ自体が、無意識的な“隠れた”目的であったという事実です。

つまり、その「あるひとつの編集作業」を「体験すること」を、ほとんど自覚の無いままに求めていたのです。そしてその体験とは、とてもフィジカルなレベルのものなのです。

目で画面を追い、対象のデータを捕捉し、おもむろに右手でマウスを移動させ、人差し指がそれをクリック&ホールド、左手薬指はCTRLキーを押し込み、右手首が肘の動作と共にスルスルと移動を始め、それに合わせて画面のデータが数値と音と形態を変化させてゆき、目と耳はその様子を子細に捉え、意識はこの状況を何らかのメタファー(「玉ねぎの皮むき」ならぬ「MIDIデータの皮むき」、「パラメータの産毛を剃る」等)を通じてぼんやりと捉え、これら全体の流れを体験するのです。

大事な点は、この体験そのものが自分にとって何らかの「フィジカル(肉体的)な心地よさ」を感じさせるものであり、その反復は生理的なリズムの如きものとして実行されて行くところにあります。

よく世間では、「道具を扱うにはリズムが大切」などと言われますが、シーケンス・ソフトも例に漏れず、ちょっとした部分でのリズムが重要であり、それは、ある種のフィジカルな心地よさを生み出すものと言えるのではないでしょうか。

万年筆やハサミなど、身近で即物的な道具では当然のように感じていた、この「フィジカルな心地よさを伴う道具体験」。

パソコンによる作業とは、マウスやキーボードそしてディスプレイ越しにデジタル情報を操るという、肉体的現実から見れば、まさに「仮想の出来事」を“こちら側”と“あちら側”の隔たりを感じながら扱うということであり、それは隔靴掻痒でかなり歪なものと言わざるを得ません。

しかし、人はその作業の総体からも、フィジカルな心地よさという体験を得ているのだと思うのです。

PCソフトという道具は、「目的へ向けた論理的な手続き型処理を重ねる」という特徴がどうしても目立ちますので、目的とする結果を重視するあまり、プロセスの置換可能性ばかりに注目してしまいがちです。

“より高機能&高性能”と呼ばれる別のソフトを使えば、きっと今よりも“より良くより良い”結果を得られるはず――そんな願いが当然のように喧伝されるのも、この「プロセスの置換可能性」が根拠の一つになっているからだと思います(この場合は、作業レベルに留まらず成果レベルの話に踏み込んでいますが)。

そういった側面と共に、実際には、「このワープロソフトは手に馴染む」とか、「このレタッチソフトの小回りの良さと軽快さは病みつきになる」という風に、それを手放せない様子を表したフィジカルな例え言葉があちこちで見られるのも、また大切な事実です。

恐らくそれらの背景には、使い手たちの生理的リズムにフィットした、“心地よい体験”の蓄積が存在すると考えられます。

そして、能動的に、もしくは受動的にそれら道具を切り替え(乗り換え)ていく際に感じるであろう「数々の些細な違和感」の存在は、それが自らの肉体的リズムに根ざしたものであるがゆえにこそ、鋭く厳しく使い手に迫ってくることでしょう。

そのことに直面したときには、旧環境を美化礼賛したり新環境を悪し様に呪うのではなく、自分の求めているものが「結果のための手続き」なのか、それとも「フィジカルな心地よさ」を伴った体験なのか、そういったことを見つめる視点を持つことで、打開へ向けた方策が見え始めるのではないかと思うのです。

そして、PCソフトのせっかくの特徴である「プロセスの置換可能性の高さ」を意識的に取り入れつつ、新たなフィジカルな体験を模索し、自ら生み出していくことが健全なのだろうと考えます。

さて、最後に私のケースに話を戻しますと、未だ乗り換えの道は途上ですが、「違うプロセスであろうと可能なだけマシ」とか、「やっぱりLogicがいい」などと苦々しく思うことがありながらも、幸い、その後の詳しい調べの中で更なる便利手順や新機能と出会う、そんなケースがとても多いです。

そして、新たにそれらをフィジカルに体験することを通じて、トータルではとても満足&充実した乗り換えプロセスを味わっています。小さな習作を重ねるということも、ずいぶん久しぶりで、新鮮な気分です。

まあこれは、旧ソフトが骨董ソフトでしたので、今のソフトだと大抵の機能は上位互換的にカバーされていると言えますから、そういう状況が影響している部分もかなり大きいのでしょう。

以上、「制作ツールの乗り換えは大変ですね」とか、「エクスペリエンス(体験)デザイン領域のことを考えさせられました」で済みそうな話しではありますが(笑)、自分の体験したことを“経験”へと高めるためには、こういった意識化は避けて通れないと感じていますので、頑張って文章にしてみました。