デジタル制作と管弦楽法

言葉の通り、管弦楽法とはオーケストラという演奏集団によって音楽を響きわたらせる数々の経験則・方法ですが、ここではPC/DAWでオーケストラサウンドを用いる音楽制作に限って、その実践や取り組みの姿勢についてざっくりと考えてみます。

乱暴な言い方になりますが、現在の世の中では「コンサート会場でオーケストラの演奏を聴いたことのある人」よりも、「録音媒体(CDなどの各種メディア)を通じて“スピーカー越し”にオーケストラを聴いたことのある人」のほうが圧倒的に多いわけです。

私自身も例に漏れずそうでしたから、実際の演奏を初めて目の当たりにしたときには、管弦楽団の生み出す音楽空間の豊麗さに心をわしづかみにされ、CDなどを通じて耳にするオーケストラがいかに情報的に限定され、ある意味で音響的に抽象化されたものとして収められているかを実感したものです。

それと共に、改めて思ったのは、「録音&編集(各種ミックス作業)をされたオーケストラ」がもつ独自の完結性というか、イメージ喚起力の強さのことでした。

管弦楽がまとっている文化的・社会的なイメージや音響イメージ。再生する場のコンテクストを超えてそれらを喚起する力を、録音編集されたサウンドは持っていると感じたのです。

その昔、サンプリング技術が普及し音楽演奏に取り込まれ始めた頃、オーケストラのフルテュッティ(いわゆる全員がフォルティシモで“ジャン!”と鳴らす)をサンプリングした、「オーケストラヒット」というサウンドが一世を風靡しました。

ホールの響きも込みでオーケストラサウンドが成り立っている以上、本来は持ち運び不可能なサウンドだったということが、そのインパクトの理由の一つではあったでしょう。

その一音がもつイメージ喚起力は凄まじいものがありました。その一音が炸裂するだけで音楽の雰囲気がガラリと決定的なものになるほどです。ちなみに、その後はオーケストラヒットそのものがひとつのイメージとして定着し、陳腐化の道を下って行くことになりましたが、今でもその「ヒット(強奏)」の力はシンセ音色に受け継がれています。

さて、サンプリングされ、本来の姿とは似つかないはずのオーケストラサウンド。しかし、聴き手はそこに数々のイメージを投影し感受しています。録音エンジニアの先人達は、演奏をありのままに記録することを至上命題とする一方、人々のイマジネーションに訴えかける新たな音響世界を模索しました。

例えば、1960年代ごろ以降の実験的なジャズ&シンフォニックオーケストラでは、音量や音響のバランスや音色そのものを意図的にエフェクト・誇張することで、録音編集でしか出せない音楽を生み出しました。これはMTR(マルチトラックレコーディング)の導入を発端とした「アルバム=音楽作品主義」を背景としていると言えます。

PC/DAW完結による制作の最終的なかたちが「録音物がスピーカーから流れる」という形式であるならば、録音編集を前提とした管弦楽法の習熟を意識するべきだと考えます。聴き手がどういった「オーケストライメージ」を持って(または何も持たず)聴くのか、そのイメージに沿うのか、はぐらかすのか、誇張するのか。

そういったことを念頭におくことで、管弦楽法を用いることそのものを多層的に扱う可能性が出てくるでしょう。楽器編成の変化ばかりではなく、演奏を想定している空間を変化させることや、演奏を即物的にエフェクト操作してしまうことによる「メタ演奏」の効果を目論むこと等。

現実での管弦楽法を録音編集という仮想世界に押し込めるのではない、こうしたやり方を自覚することが、PC/DAW環境での管弦楽法の生かし方なのかなと思います。

こういったことを自分なりに試してみた作品のひとつが、『紺碧に浮かぶ思い』でした。例のごとく習作的な雰囲気を脱しておらず、今となっては物足りなさを感じますが、ひとつの参考になれば幸いです。

さて、学習に際しては、出来るだけ多く生演奏のオーケストラに触れることはもちろんですが、そのことを通して、録音物では何がどのように削がれているのかということを感じ取ることが大切で、その上でCDとスコアから学び取っていくのがいいと思います(参考:『完本・管弦楽法』伊福部昭 著『管弦楽法』ウォルター・ピストン 著)。

実際、現在の録音編集を経るスタイルでの管弦楽法実践の一つの極みは、映画音楽に現れていると言えるわけで、そういった視点で耳を傾けてみることで、つくり手として考えるべき点や得るものがあるでしょう。

管弦楽法を用いるということを、オーケストラがまとっているイメージを用いるという意味にまで拡げて、柔軟に発想して行くことが音楽的に重要なステップだと考えています。