音楽が生まれ、育まれるところ

新聞社サイトで興味深い記事を見つけました。
「坂本龍一さんに聞く ネット時代の音楽表現とは」

タイトルだけを見ると、Web2.0時代以降の新たな視点や展開といった、発展志向な内容を想像するところですが、実際の内容はそういった浮ついたところは皆無で、むしろ淡々としたものを感じます。

ウェブがもたらした変化を振り返る文章を読みながら、私も「何の(誰の)ために表現するのか」という問いが頭をよぎり、作曲を始めた頃のことを思い出したりしました。

ネットでは圧倒的多数に視聴され話題にされないといけない。ブログでいえば、とにかく受けないといけない。やがてアクセス数をかせぐことが目的になってしまう。でもぼくはブログを書いているうち『君たちのためにやっているわけじゃないよ』という気持ちになり、ブログを閉じちゃった。

ネットのおかげで、ぼくはたくさんの人に聞いてもらうことが音楽を作る動機にならないことが逆に分かった。アマチュア時代に戻ったような新鮮な感覚だ。顔の見えない、何をおもしろがるのか分からない大量のユーザーのために音楽を作る必要性を感じない。

このインタビューを読むことをきっかけに、あらためて「音楽とは他者との関係性の中で生まれ育まれるものである」ということを思い起こし、そして自分の場合はどうなのだろうかと考えさせられました。

「ひとりでも多くの人に音楽を伝えたい」――これは音楽をつくる人ならば誰もが漠然と思うことであり、ウェブの発展においてその達成が期待された部分でもあります。

そして実際に、不特定多数の聴衆へ向けた表現ルートは増え、ウェブ上ではプロアマの垣根は低くなり、音楽作品のやり取りは大きく大きく膨れ上がったのでした。

しかし、ウェブ上での音楽表現においては、自分の表現がどういった関係性(人々のつながり、社会での位置づけ等)の中で音楽として立ち現れているのかが不明瞭になりがちであるために、(結果としてつくり手は、消費に対して供給する者というイメージを持ってしまいやすいので)そのことへの不安やもどかしさや苛立ちがつきまとうと感じています。

坂本氏の言う「『君たちのためにやっているわけじゃないよ』という気持ち」からも、そういった苛立ちを感じさせます。もちろん、こうした特徴を「音楽表現のオープンなあり方」として積極的に肯定する立場もあり、理解できます。

しかし、それをネガティブと感じる表現者が、音楽を通じたコミュニケーションを「限られた(濃密な)関係性」へと回帰させるのも一つの必然ではないかと思います。

「限られた(濃密な)関係性」とは、サイズの大きな例としては「ライブ活動等によって“音楽の時と場”を聴衆と共有する形」であり、小さな例としては「プライベートな友人知人との人間関係で音楽が共有される形」が考えられます。

ちなみに、“限られた”と言っても閉鎖的な意味ではなく、自然とその対象となる人々が限られてくる、という程度の意味です。

言うまでも無くこれらは、ウェブ登場以前のはるか昔から見られた、あまりにも当たり前な音楽風景です。実際、ウェブをライブやコンサートの告知手段とするだけではなく、ライブ記録映像の配布やコミュニティの構築などを通じて、核となるライブ体験を連帯感・一体感の強い、より掛け替えのないものとして充実させようとしている例も見られます。

また、作曲家の武満徹はある対談の中で、「自分の作曲する作品は、友人達に向けて作られている」という趣旨のことを話し合っていました。武満は先ず友人である演奏家のことを想い音楽を紡ぐと言います。これなどは上記で挙げた「プライベートな例」のひとつと言えるでしょう。

時代をさかのぼれば、ブラームスも晩年はプライベートな人間関係へ向けた小品が多く見られますし、その時代の中流家庭でも合奏や合唱を通じて音楽が生まれ育まれていました。他にも、アジアのある少数民族では、求婚の言葉を伝える代わりに即興のラブソングを相手に捧げるという風習があり、これなどは究極のプライベートソングと言えるでしょう。

こういったことを一部の例外としてしまうのではなく、音楽表現&体験の素朴な本質的事実を示したものとして、あらためて省みる必要性を感じています。

ウェブによって音楽表現のチャンネルやルートが増えたという事実を、“世間”という巨大な聴衆を獲得するためのものとして捉えるのみではなく、大小さまざまな「音楽が生まれ育まれる(顔の見える)関係性」を築くことへの、そのチャンスの拡大として捉えることで、ウェブは音楽表現者にとって強い味方になってくれると思います。

──文章にしてみると、ただ当たり前の地点を再確認しただけのような気もします。

今、こうして「音楽が生まれ育まれる関係性」ということを考えていて思い起こすのは、私の音楽の最初の聴衆であった友人たちとの関係性の中において、「私たちの音楽」という共有感覚が立ち上がったことの、その感動の記憶です。

当時はウェブが無かったものの、幸いにして身近なところに音楽を生み育てる関係性をもった人たち、すなわち共感してくれる人たちが居てくれました。現在ではウェブと上手に付き合うことを通じて、そういった関係性を距離を越えて築いて行けるわけですから、これはとても有り難いことです。

私としては、多くの聴き手を得ることの難しさという悩みもあるものの、それよりも、自分の音楽がどんな聴き手との関係性の中で音楽として立ち現れるのか、ということに関心があります。

そしてそれと共に、自分はこれまで自らの音楽的関係性へ何(どんな音楽体験)を贈ってきて、その関係性から何を授かってきたのか──、そのことを考えることの大切さに思いが至るのでした。