まずは文章の世界から

音楽であれ何であれ、作者が「出来た(もう、これでいい)」と思った時点のものを作品として提示するというスタイルについて、私自身あまりにも当たり前に思い込み過ぎていた気がしています。

「出来た」と言った瞬間、自分の内面のある部分からその作品が“切り離される”という感触があり、その離脱感覚というか、自分の作品との心的な距離感を重要なものだと考えているようです。

そしてその距離感は相当に遠いものとして捉えています。

(この“切り離す”ということは、自分自身と作品との象徴関係を生み出すプロセスとして大切なポイントだと考えていますが、このことはまた別の機会に)

さて、そのせいか、“切り離そう”というところまで到達するのに、膨大な時間や紆余曲折を必要としてしまいますし、途中で生まれる「成長の分岐点」が打ち捨てられていたことに、後になってから気づくことも往々にしてあります。

その失われた分岐点に立ち返ろうとしても、既にそれは遺跡のようなものであり、発生したときの鮮度や輝きは失われてしまっています。

自分の作曲の方法に対してそういった目を向けると、何とも言えない不器用さや回りくどさを感じて仕方が無いのですが、自分の別の表現方法に目線を変えてみると、そちらの方はもっと気軽に行動を変えてみることを試みられるのではないだろうかと思うようになりました。

つまり、言葉によってものごとを捉え表現することに関して、自分の紡ぐ文章との心的な距離感に鈍感になってみるのも面白いのではないか、ということです。

例えば、自分の中で結論の見えていない話題について、とりあえず文章化してみて、他者の視線にさらしながら再び自分の中へ戻し咀嚼したりといったことです。

気軽に“切り離し”、気軽に“つなげ戻す”こと。