「作曲を見つめる」 第二章:情感の揺れ動き

(このページは「第一章:ひらめきについて」からの続きです)

それならば、作曲の技術的な面の習熟に徹していれば、いつかは素晴らしい、本人も周囲も納得のいく作品が出来上がるのでしょうか。しかし、ここには大事な要素が抜けています。それは、自分で作った音楽を聴いているときの、情感の揺れ動きです。そして、その情感の揺れ動きに対して、あなたはどんな価値判断をするのでしょうか。「すき、嫌い」「格好良い、格好悪い」「明るい、暗い」「神秘的」「颯爽としている」「重厚な」等など。しかし大抵は言葉にならない情感を抱くことになるでしょう。そして、この情感の味わいが音楽を作る楽しみのひとつであることは確かなのではないでしょうか。あの「鳥肌の立つ感覚」の素晴らしさです。

つまり作曲を長年続けていく過程で、自分の技術的方法と情感との交わりをより豊かにしていくことが大事なのではないかということです。この二つの要素の豊かな交わりがあってこそ「ひらめきを音楽に変換する装置」はより良いものになって行くのではないでしょうか。

管楽器や弦楽器の編曲技術を例にとって見ると、これらの技術は音域を覚えたり、様々な状況での楽器の鳴り方などを実際に耳にして自分の経験として積み重ねていくものです。また、様々な観点から分析された、編曲法と呼ばれる知識が長年に渡って蓄積されています。そのような経験や知識を元にして実際に曲を組み立てていく訳ですが、その編曲に対して効果や有効性といった価値判断をする、「情感の揺れを感じ取る自分」がしっかりしていないと、ひとりよがりで理屈倒れな編曲になってしまうでしょう。

技術的な探求を進める時には、第一の聴衆としての「情感の揺れ動き」を大切にしたいものです。

技術だけでも作曲はできます。形の整った、ある限定された法則にのっとった、なによりも作曲者自身の心が動かされない、そんな曲です。それでもほかの人達を感動させることはできるでしょうが、作曲者が感動してもいない曲を提供するのには抵抗を感じます。

このことに関して、ある雑誌にこんな話が出ていましたので引用させていただきます。対談中、ある音楽学校でのエピソードとして出てくるもので、何ともこわばった空気が感じられます。

松村氏「芸大やめる頃だけど、作曲科の男子学生が、自分はどうしても現代音楽が好きになれないというんだね。学生たちのフォーラムのような場でそう言った。そうしたらほかの学生全部から寄ってたかって袋叩きにあってたよ。ある上級生の女子生徒は”私なんか無理してキタナイ音書いてんのよ!”なんて、その学生を諭してるんだ(笑)。これはちょっとこわいことだったな。(以下略)」(「音楽の世界」99年7月号より)

なんとも悲しくなる話です。彼女には自分の美的価値観に正直であって欲しいと思います。表現上の必要から汚い音を書いたのではなく、無理して書いたその汚い音を聞く立場はどうなるのでしょうか。彼女は作曲を専門に学んでおられます。さぞ高度な技術をお持ちなのでしょうが、その技術は当人の感覚に無理を強いているようです。

高度な技術や理論というものは、その理解に必要な概念や知識が高度なのであって、音楽性が高度だということと質的に同一ではありません。難解な技術や理論を用いること自体が作曲の目的とならないよう自戒したいものです。

このような技術偏重に気を付けながら、美的な価値判断をしようとする自分の意識を大切にしていくことが肝心だと思います。技術的、理論的な自分と、感情の生き物としての自分。この二人が豊かな交わりを持っているとき、そこにはダイナミックな情感の揺れが生まれ、もしかすると「ひらめき」はあなたにふさわしい贈り物をくれるかもしれません。

ここまでかなり抽象的な話が続きました。次は今までの内容を具体的に置き換えてみます。

「第三章:作曲という行為のモデル化」へ続く。