「作曲者から見る音楽理論」 第一章:理論という名の物語

まず始めに、辞典から「理論」と「法則」という言葉について調べておきます。あらためて調べてみると、音楽というものから受けるイメージからは程遠い言葉が並びます。

りろん{理論}:個々の現象を法則的、統一的に説明できるように筋道を立てて組み立てられた知識の体系。また、実践に対応する純粋な論理的知識。「-を組み立てる」「-どおりにはいかない」

ほうそく{法則}:守らなければならない決まり。規則。おきて。「-を守る」
一定の条件下で、事物の間に成立する普遍的、必然的関係。また、それを言い表したもの。「遺伝の-」「因果の-」
(「大辞泉」小学館 より)

さて、世間一般に音楽理論と呼ばれるものにはいくつかの種類がありますが、大抵は区別されず一緒に「音楽理論」と呼ばれています。

音楽理論は大別すると、まず二つに分けられます。ひとつは、実際の作品を何らかの方法で分析し、その結果を統一的法則体系としてまとめたものです。難しく聞こえますが、実はこれは「和声法」や「旋律理論」、「コード進行理論」などと呼ばれるようなタイプの理論のことです。これをここでは「作曲法タイプ」と呼んでおきます。

そして、二つ目は、同じく実際の作品を何らかの方法で分析し、ある現象を再現、実践するための「こうすれば、こうなる」を論理的に積み上げたものです。これは「アレンジ理論」や「管弦楽法」といった理論に該当します。同じくこれを「編曲法タイプ」と呼んでおきます。

この章では、まず「作曲法タイプ」の理論についてお話しします。

一つ目の「作曲法タイプ」の特徴は、その理論体系が「閉じている」ことです。つまり、ある限定された音楽状況では、その現象を統一的に説明することが出来ますが、枠の外ではその理論は誤謬と化してしまいます。簡単に言えば、クラシック古典和声法ではブルースを統一的に説明できないということです。

※クラシック古典和声法におけるブルース(飛ばして頂いても結構です)。

クラシック古典和声法ではドミナントであるV度和音からサブドミナントであるIV度和音への進行は避けるべきものとされています。トニックの倚和音(IV/ I )という形で続くことがあるだけで、これだと形はサブドミナントになりますが、機能はトニックです。この理論ではブルースのV度IV度 I 度という進行を説明することが出来ません。そしてなによりも、長調の音空間に短三度と短七度と減五度(増四度)が「ブルー・ノート」と呼ばれ共存している現象を説明できません。これらは「特殊な例外」として分類するしかありません。

さて、この「作曲法タイプ」の理論は、音楽のある要素を包括する法則体系として在ろうとします。例えば、コード進行の理論なら、音の縦の重なりの連続という要素について法則体系を作ろうとします。自然倍音をよりどころにして、和音の成り立ちと五度の音程の優越性を定義し、音のつながりを法則化していこうとします。

「なぜ、このような和音の連続が可能なのか、その根拠はなにか」というような問いに理論は答えを出そうとし、一貫した法則を提示しようと試みます。ひいては、生み出され得る和音連結の全体をも導き出そうとします。なぜなら、物理法則によって自然界を描くことで、この世の中の「現在と過去と未来」を把握しようとすることと同じ欲望が、ここにも存在するからです。「ビッグ・バン理論」の成り立ちを思い出して頂ければ納得されるのではないでしょうか。

しかし、音楽界の万有引力とも言える「自然倍音」を根拠とする理論ですら、その足場は危ういものなのです。理論の根拠となる部分に疑わしさが出てくると、これもまた誤謬と化します。それならばいっそ理論の正当性を問うことを棚上げにし、「音楽を説明するひとつの物語」として受け止めておくのが妥当ではないかと思います。

逆にいえば、「作曲法タイプ」の理論というのは、ある限定された音楽を説明できる様に組み立てられた「知識の体系」であり、自らの設定した、ある限られた条件の元でのみ真となる法則だということです。ちなみに、「ある限定された音楽」というのは、ジャンルが限定されることを指す場合(上記のクラシックとブルースの例)と、要素が限定される場合(和声のみや、旋律のみや、リズムのみ等。後の二つは民族音楽理論によく見られます)とがあり、大抵はそれらが組み合わさっています。

これらの理論は、曲の分析や理解には役立ちますが、それを音楽の普遍的法則と頼って盲信することには疑問を持たざるを得ません。これは医学の解剖学に例えられるでしょう。人体の仕組みがいくら解っても、それは「人間」を知ることと同じではありません。なによりも、その人体を生き返らせること、命を作ることは出来ないのですから。

では、「作曲法タイプ」の理論とはどのように接して行けば良いのでしょうか。それは、その理論が妥当かどうか、真か偽かを検証するのを一旦保留し、その理論を用いた音楽、もしくはその理論で分析可能な音楽がどんな響きを持つのかを感じ取れば良いだけなのです。

身近な例で言えば、作曲初心者が「コード理論」の本を手にする時でしょう。最初のうちは、そこに書かれている様々な前提や法則といった知識体系を、無理に理解しようとしないことです。体系的な理解というものは、ある程度の時間をかけた後に経験の連関として生まれてくるでしょう。それに、そこにあるのは限定された音楽に対してのみ有効な世界ですから、ある意味トランプのルールブックを読むような感覚でも良いのかもしれません。まずは七並べの楽しさを味わってみましょう。

クラシック古典和声法において「連続五度」や「増音程進行」などが避けるべきものとされている理由は、基本的にこの和声法が「合唱」を対象としたもので、「歌いやすさと声部の独立性」に価値を置いているからなのです。これらに価値を置かない音楽は世界に山と有ります。このように理論は往々にして閉じています。それよりも、譜例を実際に音にしてみて、当人が知らなかった響きに触れてみて、未知の音世界に対する興味を持つことが大切だと思います。

また、別の例として、天気予報の不快指数があります。変な例ですが、「不快な空間」を作ろうと考えている人がいるとします。その人は不快指数の成り立ちや根拠、その理論といったものを理解するよりも、まずは「不快指数100」の時に表へ出てみて、その不快さを味わうべきです。そして、なぜ市民の間にこんな指数のコンセンサスが得られているのかを疑問に思った時、その理論的追求をすれば良いのです。そうすれば、「不快な空間」を成り立たせる要素は湿度や気温だけではなく、様々なものがあることに気付いていくことでしょう。

閉じた理論に則った作曲は、徹底すれば効果的だと思われます。ある範囲の音楽作品から抽出された「知識体系」と「法則」にそって具体的に作曲することは、その音楽の歴史的エッセンスに触れることと等しいからです。それに、時間をかけてなにかひとつ閉じた理論に精通しておくことは、その後に大いに役立つことでしょう。次章でお話ししますが、これは音楽的「ものさし」として生きてくるのです。

その理論の存在意義は、作者に取り込まれ実作を通して現れてきます。実作を通して作者の中に経験則が生まれ、それは独自の理論として結実することもあるでしょう。

作曲者は音楽学者ではありませんし、極論としては科学的正当性からすらも自由で有り得るでしょう。最終的には憑依的、主観的価値観で独自の音楽を築いて良いと思います。音楽理論自体がどうなのかではなく、それをどの様に作品の具体的な響きにしていくか、ひいては自分の方法としていくのかが問題なのではないでしょうか。

というわけで、「作曲法タイプ」の理論の特徴や、その接し方についての話でした。次は「編曲法タイプ」についてと、まとめです。

「第二章:素材として、ものさしとして」へ続く。