「作曲者から見る音楽理論」 第二章:素材として、ものさしとして

(このページは「第一章:理論という名の物語」からの続きです。)

続いて、「編曲法タイプ」の理論についてです。

このタイプの特徴は、その多くが「経験論」から成り立っていることです。つまり、その理論の立案者の経験から導き出された価値体系が表わされていると考えられるのです。仮に、その理論の前提となるもの(音響物理学や認知心理学など)の根拠が危ういものであったとしても、その「編曲法」から得られる効果が活用者にとって有用でさえあれば、その存在価値は十分であると考えます。

例えば、「怖い音楽」のための編曲法として「不規則に半音で動くフレーズを低音で奏する」というものが有るとします。その理論的説明として、「認知心理学上、不規則な動きと半音を用いて音楽的予測をさせ難くすると、不安感を呼び起こさせる」などと記されていることでしょう。ここでは「作曲法タイプ」と違い、理論的整合性を最初から棚上げにしてもかまわないと考えます。ですから、認知心理学による根拠が覆されるようなことがあったとしても、それまでの効果の質に変化は無いのです。ただ、その効果の説明の仕方が変化するだけなのですから。

「管弦楽法」に代表される楽器表現法も、立案者の経験論から成り立っています。これを確認するには、時代の違う複数の管弦楽法の書物を紐解くだけで十分です。そこには立案者の美的感覚を反映した文章がたくさん並んでいます。同様に、「バンド・アレンジ」を始めとする現代の編曲法にもこれらの特徴が伺えます。

今の例は立案者の経験から生まれた、効果の価値体系(「こうすればこうなる」の連関)としての理論と言えます。その他に、「作曲法タイプ」の理論を拡大、発展させて生み出された編曲法があります。

この種類のものに、例えば「アッパー・ストラクチャー・トライアド(以下U・S・T)」というものがあります。これは「作曲法タイプ」の理論を拡大解釈して、音楽素材(フレーズ、和音等)を処理する技法として独立させたものと言えます。技法の成り立ちとその根拠は、元となった「作曲法タイプ」の理論にあります。

※「U・S・T」について(飛ばして頂いても結構です)。

「U・S・T」とは、コード理論を発展拡大したものの一種です。コード(和音)の拡張として三度堆積を高音域に重ねていくことにより、「テンション」と呼ばれる二次的な構成音が得られます。いわゆる「九度、十一度、十三度の音」と呼ばれるものです。「U・S・T」は、これらテンションを含んだコードを具体的にボイシング(音符の配置)する時に用います。「U・S・T」を直訳すると「三和音(トライアド)による上部構造」となり、その名の通り「テンション」と「コードの構成音」を組み合わせて、中高音域に三和音を形作るようにボイシングする技術を指します。三和音の形は安定度の高い音集合ですので独立した響きを感じさせ、これが「U・S・T」独特の調性感を醸し出します。

具体的には、「C(9,#11,13)」にこの技術を用いた「D/C」といったものがあります。「U・S・T」では、この様に分数の形で表記します。これは「Cメジャー・トライアド(三和音)の上にDメジャー・トライアドが形作られている」ことを表しています。一番簡単なボイシングとして、鍵盤上で左手で「Cメジャー・トライアド」を、右手で「Dメジャー・トライアド」を同時に押さえれば「D/C」のサウンドになります。ポイントは、右手の「Dメジャー・トライアド」は、「Cメジャー・トライアド」を拡張して得られるテンションを組み合わせて出来たものだということです。

この様に、「U・S・T」は「自然倍音を根拠とした和声理論」に全面的に依拠した技法です。テンションは三度堆積を根拠とし、三度堆積は自然倍音を根拠としています。そして「U・S・T」はこれらの概念の上に成り立っているのです。

これと似たようなものには、「4ウェイ、オープン、クローズ、スプレッド、ドロップ」等などの各種ボイシング技術や、「プライマリー・ディゾナンス・コントロール」、「ライン・ライティング」といったメカニカルなフレーズ処理法などがあります。この種の技法の価値体系は、活用者が実作の上に作り上げて行くしかないと思います。逆に単なる方法であるとも言えます。これらは皆、根拠となる理論を発展、拡大して考案されたもので、合理的に洗練された「機械的な処理法」に徹しています。

このように、これらの編曲法に接するにあたっては「作曲法タイプ」の理論と違って、技術的ノウハウの集合体として貪欲に接して行って良いと思います。その時の自分が必要だと感じたことを、必要なだけ取り込んで蓄積して行きましょう。DTMの打ち込み技術も一種の編曲法ですし、シンセサイザーに習熟することも編曲法の一部となります。これらも「こうすればこうなる」のかたまりですから。

さて、まとめとして、作曲をする側が「作曲法タイプ」、「編曲法タイプ」の理論それぞれに接する時の視点には、次のようなものが考えられるでしょう。それは、作者はそれを知ってからどのような音楽を作り出すのかというものと、作者の作品はそれら理論によってどのように解釈できるのか、というものです。

どのような作品を作り出すのかということについては、前章でもお話しした様にある意味当たり前のことと言えます。そもそも表現のテーマというものは、ありとあらゆる所に転がっているものです。理論をそのテーマとする気持ちで接すれば、それは体系的な法則としてではなく豊穣な一素材という新たな表情を見せ始め、作者がそこから何を生み出すのかが問われるわけです。つまり、別コラムでお話しした「変換装置」を、理論に対して働かせてみようということです。

また逆に、理論を、限定された中ではあっても統一的法則体系を成すものだと客観視することによって、ある特徴を持った「ものさし」を手に入れることが出来ます。理論をもって作品を分析することは、本質的に主観的価値観しかより所の無い作曲の領域に、まさしく「ものさし」を持ち込むことに等しいのです。

このものさしは目盛りによって数字が出たりして結果を表してくれますが、「良い、悪い」の価値は示しません。しかし、ある印象を与える作品群に共通するものを、このものさしは教えてくれるでしょう。もっと細かく、ある響きを持つ和音群に共通する音程の組み合わせや音域を、このものさしは教えてくれるでしょう。また別なところでは、ある演奏家のアドリブには高い割合で特定のスケールが用いられていることを示してくれるでしょう。

このものさしは、ものさし自身が決めた尺度であらゆる音楽を測ろうとします。しかし、棒定規では曲面を測れないように、分析不能な対象は「例外」としてひとまとめにしてしまいがちです。なかにはメジャーのように平面も曲面も測れるものさしがありますが、その扱いは難しいのかもしれませんし、正確なものではないのかもしれません。

実は、教育機関において初期のうちから理論を学ぶことの目的のひとつに、このものさしを手に入れるためというものがあるのです。自分が作るためというよりも、自分の曲や人の曲を感覚的のみならず分析的にも理解できる能力を身に付けるため、一見なんの役に立つのか解らないような「音程」や「音階」、「調の関係」といったことを覚える過程があると言えます。

小学生の時、掛け算の九九を覚えさせられたことを思い出してください。それがどれほど役立つものなのか、ほとんど教えられないままに覚えさせられ、単調な筆算へと進み、桁数の多い掛け算が出来るようになっていきます。それがいかに自分の中で生かされているかに気付くのは、皮肉にも算数の例題のイメージとはかけ離れた、実生活での必要に迫られたときです。

ものさしとしての音楽理論に関しても、そのものさしの有用さを理解できるまでは九九のような単調さや無意味さを感じることでしょう。しかし、ものさしを色々な音楽に当てはめて、些細なことに「なるほど」と思ったり、「例外としか考えられない」と分類したりしながら、いつのまにか距離感覚を身に付けていることでしょう。時間が経つうちに自然に身に付いたものは、本人に自覚が無くとも大きな力となっているのものだと思います。

音楽現象というのは聞き手(作者)の感性の中に存在していると言われます。例えば「ドミナント・モーション」という現象は客観的に存在するものではありません。ただ、聞き手が感じ取るあるものが、その様に呼ばれるのです。増四度の響きが三度および六度系の響きに移行したときの「あの感覚」のことを「ドミナント・モーション」と呼んでいるのです。

再三「響きに接する」という言葉を用いたのも、また別コラムの「音楽的経験の総体」というものも、「音楽現象というのは聞き手(作者)の感性の中に存在している」という前提から来ているわけです。音楽理論を理解して「知識の体系」を身に付けるだけでは音楽的には意味が無いでしょう。それを「感性の体系」にまで昇華させていくことが理想的だと思います。そして、そのためには長い時間をかけた音楽的経験の積み重ねしかないのでしょう。

音楽は本質として自由なものだと思います。どんなことをしたって良いでしょう。しかし、何をしても良いと言っても結局はその広大な自由に戸惑うことになってしまうでしょう。それならば、自分に出来ることを積み重ねていくことによって、自由の範囲を広げて行く方が建設的であると思います。様々な音楽を聴いたり、文学、絵画、映像等の他メディアに触れて刺激を受ける様に、音楽理論への接し方も考えて頂ければと思います。(終)