「続・作曲を見つめる」 第二章:音楽だと感じる音

(このページは「第一章:音と意味との関係」からの続きです。)

「語音」や「日常音」の特徴がある程度解かったところで、次に、日頃音楽だと感じている音について見ていきたいと思います。

まず、ピアノの音が「ポーン」とひとつ鳴っただけだと、この時点では「ピアノが鳴ったこと」や「ピアノがそこに在ること」を指し示す具体音(単なる楽音)と考えられ、音楽とは感じないでしょう。この一音は誰かが間違って触れて出た音なのかもしれませんし、鍵盤の上に物を落としてしまったのかもしれません。

ここまでは「日常音」と同じです。その音を耳にした人は、「何かが鍵盤の上に落ちた」と思って慌ててピアノの方を向くかもしれませんし、「誰かがいたずらをしているな」と思うのかもしれません。

しかし、その音が連続するとそこには「音の関係」が生まれます。つまり、今鳴っている音と、その前に鳴った音と、そのまた前に鳴った音との関係、というものが生まれる訳です。そして、それがどんどん連続して聞き手の耳に流れ込んで行きます。そうなってくると、「聞こえている音はピアノが鳴っている事実を指し示している」ということとは違う地平において、「聞こえている音は音楽だ」と意識し出すことを経験上認めざるを得なくなります。

この様に、「音楽だと感じる音」には「関係を持つ音の連続」という特徴が在る様に思われます。ちなみにこの例の場合、「音楽だと感じる」ピアノによる旋律とは、ある関係を持ったピアノの音の連続のことだと言えます。

ところが、ここまで考えてみると、再びあることに気付きます。それは、「言葉(語音)も関係を持った音の連続ではないのか」ということです。確かに、語音は色々な発音を組み合わせた、関係を持った音の連続だと言えるようです。

そういう訳で、ここで「語音」と「音楽だと感じる音」の違いを考えておきたいと思います。まず、「語音」は先にも述べました様に、その意味するものを指し示す音であり、その意味は具体的で、発言者の込めた意味は誤解無く聞き手に伝えられることを前提としています。

「音楽だと感じる音」の場合はどうでしょうか。この場合の例としては、器楽曲と思想の関係が挙げられるでしょう。ある思想を言葉で伝える様に、音楽で具体的に伝えられるでしょうか。その曲を聴いて思想を理解できるでしょうか。

何よりも、その音楽の意味する先には、思想的な具体的意味が間違い無く在るのでしょうか。その思想的意味を具体的に「理解」するから、その曲に感動するのでしょうか。聴き終わったとき、聞き手の内にその思想という具体的な内容は届くのでしょうか。その思想というバック・グラウンドを知らずに曲だけを聴いたならば、なおのこと、そこから「思想を意味する具体的なもの」を得ることは出来ないのではないでしょうか。それとも聴き取れない方がいけないのでしょうか。しかし、耳にした人のほとんど全てが理解できる語音と比べ、その伝達度が圧倒的に低いことは事実でしょう。

音楽にそういったものを込めようとすることは自由です。しかし、言葉の役割と同じ様に音楽を利用できるとは思えないのです。今までの経験上、この点が「語音」と「音楽だと感じる音」との違いのひとつだと言えます。

それから、語音を聞く時には、その語音(言葉)の指し示す別の具体的な意味を知ろうとしますが、このときには、ひとりの発言者の語音の連続を聞くことになります。しかし、「音楽だと感じる音」を聞く時には、様々な音の関係が一度に耳に入る状況になります。

ある音楽(曲)を構成している様々な要素(メロディ、リズム、ハーモニー、音色変化等)というものは、それ単独で聴いても全体として聴いても、それ相応に何の混乱も無く「音楽だと感じる音」として聴くことが出来、「何か」を感じ取ることが出来るでしょう。フレーズ・サンプリングを用いたコラージュ・ミュージックでは、複数の曲を並置したものすらありますが、これらも音楽だと感じています。

しかし、語音で同様のことをすると、聖徳太子でもない限りその意味を理解する事は無理でしょう。この様に、語音は常に一系列の音の関係として意味を伝える事しか出来ないのですが、「音楽だと感じる音」においてはその様な制約や問題とは無縁です。この点も大きな違いと言えるでしょう。

他にも違いがあります。語音の場合、同じ意味を違った言い表し方で表現できますし、別の言語に翻訳することも出来ます。これは、意味がその外部にあるからこそ可能な事だと言えます。ところが、「旋律」においては実際にそういう作業をしようとすると、はたと考え込んでしまうことになります。

ここに、或る伴奏に伴われた「ソ・ラ・シ・ド」という旋律があったとして、これを「ラ・シ・ソ・ド」に作り変えたとします。その時、「元の旋律を、同じ意味を持つ別の旋律に翻訳した」と感じているでしょうか。作り変えた時点で、元の旋律は消えて無くなり、まったく別の新たな旋律に置き換えたのだと感じるものではないでしょうか。

つまり、旋律の個別性を重要視しているのではないかということです。ある長い旋律の中のただひとつの音を、「ド」にしようか「ミ」にしようかと悩むのは、その一音で旋律の表情、作り手にとっての意味が違ってくるということを、身をもって経験しているからではないでしょうか。つまり、代替が利かない唯一的なものが「音楽だと感じる音」にはあるのではないかと思うのです。

そもそも、意味するものが具体的にあってその表現を語音でするならば、曖昧なままの色々な言い回しで十分に通じることは、日頃の話し言葉の中で経験されていることと思います。極端な例ですが、ある事務所において「時間を見つけて手紙を出しておいて」という語音も、「手紙、あれな時に何しておいて」も、そこに或る慣習が成り立っていれば、後者のような語音を用いても意味が通じてしまうものです。

こうして見てみると、人は「音楽だと感じる音」を聴くことによって「何か」を感じ取っているのだとは思いますが、その「何か」とは音の世界の外部に具体的に在るのではない、という気がしてきます。言うなれば、「音楽だと感じる音に内在する何かを聴くために聴く」とでも言えましょうか。

「語音」「日常音」における「何か」とは具体的なものであり、かつ、音の世界以外のところにありました。それは物質であったり、伝えたい概念であったりしました。ですが、「音楽だと感じる音」において「何か」とは、その音自身に含まれ顕わされている様に思えます。

変わった例として、これら音を擬人化してみるならば、「日常音」は「ガラスが割れたから私(音)はここに居ます。あなたに私が聞こえるのはガラスが割れたからです」と言うでしょうし、「語音」は音そのものが発言者の伝えたい概念ですから、「私の伝えたいことを理解して下さい」と言うでしょう。そして、「音楽だと感じる音」は「私自身を聴いてください」とだけ言うのではないでしょうか。

ここまでに見てきた様に、「音楽だと感じる音」と「語音」「日常音」との違いとその特徴が、ある程度見えてきたのではないかと思います。そこでこれからは「音楽だと感じる音」すなわち、「その伝えようとする”何か”が音の外部には無いと思われる、聴くために聴く、関係を持つ音の連続」のことを、「音楽音」と呼ぶことにします。これは、「楽音」「噪音」「騒音」といった音響的な区別ではなく、音楽として鳴り響く音、つまり「音楽を音楽足らしめている音」と考えてください。具体的には、大きなものでは「鳴り響く曲全体」でしょうし、小さなものでは「リズムや旋律や和音を感じさせる断片」などとなるでしょう。

注意したいのは、楽音(楽器の音)そのものは音楽音では無いということです。楽音がリズムを感じさせるような時間変化をしたり、複数の楽音が関係を持って連続することによって、初めて「音楽音」と呼ぶということです。

これは楽音に限らず、例えば「手を叩く音」にも当てはまるでしょう。一回だけ「パン」と手を叩いただけだと「手を叩いた」という意味を伝えるだけです。そこから社会慣習によっては「人を呼んでいる」意味等に解釈されることもあるでしょう。ですが、この「パン」と叩く音が連続し、聞き手がそこに「リズムの断片」を認め出すと、「手拍子」、つまり音楽を感じ出すのだと言えます。そして、「手を叩く音」のリズムが伝えようとする「何か」は、その音そのものに在るのではないか、ということです。

これは、「騒音音楽」という言葉からも想像できるように、音単体では騒音であっても音同士の関係によっては音楽に聞こえることを表しています。逆に、楽音として認められているヴァイオリンの音でも、のこぎりの様にこするだけでは騒音だと言えるのではないでしょうか。このあたりも、「音楽音」について音響的な区別を特にしていない理由です。

それでは次は、「音楽音」がその内に持っていると考えられる意味、その「何か」について考え、「音楽を聴く」ということに迫ってみようと思います。

「第三章:音楽音が伝えるもの」へ続く。