「続・作曲を見つめる」 第三章:音楽音が伝えるもの

(このページは「第二章:音楽だと感じる音」からの続きです。)

私達が音楽だと感じている音が、日頃耳にする「語音」「日常音」とはその性質、在り方が違うことを見てきました。そしてその音を「音楽音」と呼ぶことにし、ここではその意味するものについて考え、「音楽を聴く」ことに迫ってみようと思います。

すると、次の様な意見に出会うことになります。「”音楽音”とは、この場合は音楽作品を指していると考えられるのだから、その意味は作曲者が込めようとした”感情”や”思いの丈”といったものではないのか。そして、それが伝わるかどうかは別問題なのではないか。さらに言うならば、実は”音楽音”自体にはきっかけ以上の意味など無く、作り手と聞き手の内でそれぞれ勝手に意味を作り出し、その接点を共有しているだけなのではないのか。つまり、作り手から聞き手へ何かが伝わっているというのは、実は共同幻想なのではないのか」

これは次の様なことを指しています。つまり、「音楽音」を耳にした時の聞き手の内においては、彼の今までの音楽体験の記憶が「音楽音」を聴くことによって引き出され、その「音楽音」に対し自らが意味を与えているということです。例えば、ある旋律を耳にしたとき、「悲しいメロディーだ」という感想を持つということは、その人の今までの感情の記憶が、その旋律を聴くことをきっかけとして引き出されて来たことを表わしているのではないか、ということです。

ここでいう音楽体験とは、例えば、悲しい気持ちのときに耳にした音楽の記憶といったことの積み重ねを指します。具体的な例として、ドラマの悲しい出来事の場面で耳にした音楽の記憶がそれにあたります。他に、音楽とまったく関係の無い感情の記憶も含まれると思います。人が聞けば滑稽だと感じる音楽でも、ある人にとっては辛い思い出と結び付いていて、耳にするだけで涙が出てくることもあるということです。ですから、音楽を耳にしたときに条件反射的に心に表れる感情のことを、その音楽が伝えようとする「何か」だとしている訳です。

このことは、「聞き手の数だけ感想がある」「人によって音楽の捉え方は様々だ」という意見の根拠でもあります。つまり、「音楽音」の意味とは、それを耳にした人それぞれがその内に作り出す感情のことであり、だから、「音楽音そのもの」を通して作り手から聞き手に伝わる「何か」、というものは無いという訳です。

しかし、聞き手の内に意味を作り出すきっかけとなった「音楽音」という存在そのものに、何かしらの働きがあるからこそ、そこから聞き手は感情という意味を持ち得るに至ったのだと考えられないでしょうか。つまり、聞き手の内に生まれた心の動きは、感情の記憶からではなく、そもそも「音楽音」を聴くことによって生まれたのではないのか、ということです。聞き手の心を動かす根源的な力が「音楽音という現象そのもの」にあるのではないでしょうか。

何故なら、今までの考察によって「音楽音」が他の音とはその成り立ちや在り方が違うのではないか、ということを感じているからです。ですから、「音楽音」が、「語音」や「日常音」と違ってその意味するものが具体的に存在しないことを理由に、その音自体には伝えるものが無くて無意味(ただの音)だとする訳にはいかないでしょう。

また、今までの経験上、「音楽音」を聴いているその瞬間には、その音(音楽)でなければ味わえない、音の個別性のようなものを感じていると思います。それは、聴くことによる感想というものではなく、聴いているその瞬間ごとにその現実の音そのものから感じられる、「その音でなくてはならない」という個別性です。先程の、旋律の翻訳に関しての考えと同じことです。このことからも、「その音(音楽)でなければならない」という個別性の大切さを思うのです。これは、「音楽音そのもの」には他の音には無い働きが在り、「音楽音」は何かを伝えようとしている、という考えに繋がります。

それに、「音楽音」の意味を、人それぞれがその内に作り出す感情のことだとすると、作曲者が器楽曲によって伝えられることは基本的に聞き手に依存した感情だけということになり、感情に関する社会慣習のノウハウ集めに汲々とすることになるのかもしれません。しかも、それは正確に言うと伝えているのではなく、条件反射の予測をして、そのきっかけを仕込むような作曲をしているのだと言えます。

これは、ある種の音楽においては当然の手法ですが、それが全てだと言われると、作曲に魅力を感じなくなるのは私だけではないと思います。せめて、自分の創る音楽に何かを込められ、それが伝えられる可能性があるのだと思えるようにしたいと考えます。そこで、なんとか「音楽音そのもの」に意味を見出し、突破口としたいところです。「きっかけ」であるにしても、大きな意味を持つきっかけであって欲しいと思うのです。

その、「音楽音そのもの」について、音楽学者のツッカーカンドルは以下のような興味深い考察を行っていますので引用してみます。

音楽音とは特殊な「力動的質(dynamic quality)」をもつ音である。そして、この「力動的質」が音の音楽的性質にほかならない。

「力動的質」は、我々の内なる世界の心的あるいは精神的出来事に属するものでもなければ、外の世界の物理的現象でもない。これまで外界は物質の世界、物理的出来事の世界とみなされ、この物質界に根拠を持たない現象は、我々の内的世界にその源をもつと考えられてきた。また、そのいずれでもない場合には、それは神の仕業と解された。

だが、外界には物質、物理的出来事ばかりでなく、それを超越した力という存在がある。音楽音とはその力の現象なのである。したがって、我々の外界の知覚も、物や物理的現象に限られるものではない。我々の感覚のうちの少なくとも一つは、力という存在を直接知覚する能力をもつ。それが「聴」である。

音楽音に内在する意味を「力動的質」とみなし、それを聴によってのみ直接に感得される力そのものの現われと考える。それ故、音楽を音楽として聴くということは、我々が日常生活の中で出会っている世界(つまり、物理的出来事の世界としての外界、および内的世界)から際立っている、極めて独自の出来事の体験であることを意味している。
国安 洋 著「音楽美学入門」春秋社 より)

以上の様に、幾分神秘的なものを感じもしますが、「音楽音そのもの」について考えるにあたって大変貴重な示唆を与えてくれていると思います。特に、視覚や触覚、嗅覚といった感覚器官が、明るさや温度やにおい等の物理的出来事を感じ取る様に、聴覚は音独自の「力」を聴き取るという考えは、日頃音楽に対して行っている価値判断以前の視点を提供しているという点において重要に感じます。

つまり、「ある音を聞いた時にそれを音楽だと感じるということは、その音の力動的質を”聴”によって体験しているのであり、その様な力を現わしている音を音楽音だとしよう」という訳です。そうなると「聴くために聴く」とは、音そのものの「力動的質」を聴き取ろうとすることだと捉え直すことが出来るでしょう。

具体的な例として、或る曲の中でドミナント・モーションを感じるという音楽体験とは、曲全体という「力」の中の、ある「力」だけを聴き取ることだと言えると思います。ドミナント・モーションだと感じる「あの感覚」とは、その中の「ある種類の力」というものを聴き取ることによって得られるのだと考えられるわけです。そして、その「力」は全体の内の部分であり、かつ、全体の「力」のために欠かせないものだと言えます。ちなみに、その「感覚」がどのような価値を持つのかは別問題だということです。

このことを踏まえて先程の意見を見直すと、やはり「音楽音」自体には伝えようとする「何か」があり、それは「力動的質」という、聴くことによってのみ感じ取れるものを通しての体験のことだ、となります。これを聴き取るからこそ、その音を音楽だと感じ、また、そこから過去の音楽経験との照らし合わせも始まるのだと言えます。

そして、さらに「音楽音」には、「力動的質」の体験を媒介とした作用があるのではないかと考えられ、その作用によって共感が生まれているのではないかと言えるようになります。

つまり、力動的質の体験ということを媒介として、双方の間に共感が生まれているのではないか、ということが考えられる様になってきます。作り手である作曲者にとっては、その体験について思い描くことが興味深いポイントになってくるのではないでしょうか。

しかも、力動的質の体験を通して、作り手と聞き手の間に幻想ではない本当の「共感」が生まれる可能性が見えてくる以上、単なる共同幻想だという意見は無視できるものになってくると思います。この様に、作曲者は自らの音楽を通して聞き手と共感できるという、ある意味当たり前のことが再確認できるのではないでしょうか。

さて、ここまでご覧の様に、まずは「音」と、その意味するものとの関係を手掛かりにして、音楽体験の基本である「聴く」ということについて考え、それにより、「音楽だと感じる音」すなわち「音楽音」を聴くという体験は、「力動的質」の体験という音楽独自の出来事の体験のことなのではないか、と想定できるところまで来ました。そして、その体験を通じて「共感」が生まれるのではないかと考えている訳です。次はそれらを足がかりに、「作曲によって伝えられること」について考えてみます。

「第四章:作曲によって伝えられること」へ続く。