「続・作曲を見つめる」 第四章:作曲によって伝えられること

(このページは「第三章:音楽音が伝えるもの」からの続きです。)

これまでに行ってきた考察をもとに、作曲によって伝えられることについて考えてみます。伝えられることを考えると言っても、その全体を具体的に捉えようということではありません。音楽という広大な世界の中のほんの一部を、これまでのことから想定してみようという訳です。

ここでもう一度、耳にして音楽だと感じる音についての素朴な感想を思い出してみます。

「音楽だと感じる音」の特徴とは何でしょうか。今までの経験による素朴な感想として、例えば、それを耳にすると心動かされるものだと言えます。そこに込められた何かがこちらに伝わってくるものだ、とも言えるでしょう。

音楽を聴くときには、積極的にそこから何かを感じ取ろうとしたり、音楽から自然に伝わってくるものを感じたりという風なことをすると思います。そういった経験から、確かに音楽には何かが在るように思われるのです。
(第一章 より)

そのことを改めて考えると、また違った感想を持つことが出来ます。確かに音楽には、他の、日頃耳にする音とは違う「何か」が在るように思います。そして今、その何かのひとつとして、「力動的質」の体験という、音楽の世界ならではの体験を想定することが出来ると思います。

普段、音楽について語られるときには、共感の媒介者という視点は考慮していないのではないかと思います。それこそ、「音楽はただの音だ」といった単なる音響としての視点か、「音楽を通して共感する」「音楽で共感する」という、漠然とした言われ方をすることが多いのではないでしょうか。そこで、このコラムにおいては、「何故共感が可能なのか、音楽の特殊性はどこにあるのか」という疑問に対して考えている訳です。そして、音として見たときの「音楽だと感じる音」の特徴を考えることに始まり、「音楽音」を想定し、その「音楽音」の伝えようとする「何か」とは「力動的質」の体験のことではないかと考え、その体験を媒介者として共感が生まれているのではないか、というところまで来た訳です。

そうなると次は、「音楽音」によって生まれると考えられる、肝心の「共感」とは何なのかについて、これから考えて行かなければならないことになります。そしてそのことが、作曲によって伝えられることを考えることに繋がって行くのではないかと思います。

さて、ある音楽音を聴くことによって何かしらの感情を持つに至る経験というのは、誰もが心当たりの有ることだと思います。このコラムでは、その感情とは音楽音の力動的質の体験を通じて呼び起こされた「感情の記憶」であると考えています。さらに言えば、その感情とは音楽音による効果という風に捉えられるでしょう。では、そのときの感情と、日常生活の中での様々な感情とは同じものなのでしょうか。

日常生活の中で経験する喜怒哀楽の感情とは、何かの出来事に出会った時に生まれると思います。自分の望みが適ったときや、親しい人が居なくなったり、人から被害を被ったとき等、そんな現実の出来事に遭遇したとき、人は生き生きとした感情を持つと思います。つまり、これら感情とは人の受動的反応であり、出来事やものごとの属性としての側面があると言えないでしょうか。

ただ「楽しい」という感情を思い起こすことは出来ず、「楽しかった何々のこと」を通して楽しいという感情が思い起こされるのでないでしょうか。「楽しい気持ちになろう」と思うなら、楽しかった思い出を想像の中で体験しなおすことでしょう。そのとき、常に具体的な出来事が関わっていることに気付かれるのではないでしょうか。

しかも、この様に受動的反応として持つ感情というのは、ある程度に個別的なものであり、ある出来事に対する感情とは大抵、人によって様々なはずです。人として誰もが悲しむ出来事は有りますが、場合によっては人との永遠の別れですら、それを悲しみではなく喜びとして感じる例が有ることを思い起こして下さい。

さて、この様な感情の記憶が、音楽音を聴くことをきっかけとして聞き手の内に呼び起こされるとしたら、確かに、聞き手の数だけ感想があるのだと言えそうです。ここで気を付けたいのが、日常の中での感情というのは、リアルな今という現実に対する感情であるのに対し、音楽音による感情とは、あくまで記憶としての感情が呼び起こされている、としていることです。

この部分が、音楽音を聴いたときの感情と、日常生活の中での感情との違いですが、その成り立ちは「ある出来事やものごとに結びついた受動的反応」という点では同じだと言えます。しかし、聞き手にとっては、その感情が記憶なのか現実の感情なのか区別できていない、もしくは区別できないのではないか、という疑問が残りますので、この、「記憶としての感情」については再考の余地があるところだと思います。

さて、感情とは、その人の体験してきたことと密接に結び付き、しかもある程度に個別的なものだと考えられる訳ですが、では音楽音を通じて、この具体的な体験と結びついた感情というものを、聞き手にその通りに伝えられるのでしょうか。聞き手にとっては、音楽から伝わってきたと感じている感情とは、やはり、「きっかけ」に対する反応として、聞き手の内の感情の記憶(もしくは感情そのもの)が呼び起こされたものと考えるのが妥当ではないかと思います。

もしそうであるならば、作り手が自らの具体的体験を通じて得た感情をその作品に込めたと思っても、それがその様には聞き手に伝わらないのではないか、ということになってしまいます。では、共感の根拠が感情に無いのだとしたら、一体どこにあるのでしょうか。

感情とは具体的な出来事等と結び付いたものだと考えられます。そして、今という現実に対して持ち得るものです。ですが、感情というものだけがリアルな心の動きなのでしょうか。感情の他にも、その当人にも理解できない様な、つまり、言葉にならない、掴み取れない、自分で自分の心が解からなくなるような、そんな不可解な、しかしリアルな「気分」というものが、あるのではないでしょうか。

この「気分」というのは、何かしらの出来事によって呼び起こされるというよりも、そういう状態になってしまうもの、何のきっかけもなく心に起こるものだと思います。まさに、「気分的」「気分屋」という言葉が表す様に、掴み所のない心の動きだと言えます。そして、その気分自体は、何か具体的な出来事やものごととの明確な結び付きは無いのではないでしょうか。何故こんな気分なのか自分でも解からない、という様な経験は誰にでも有ると思います。この「気分」というものは、没対象的な、真に主観的な心の動きだと考えられないでしょうか。

そこで、次の様な仮説を立ててみます。音楽音を聴いている時のリアルな体験とは、感情(の記憶)を呼び起こされることではなく、没対象的な真に主観的な「気分」と呼ぶべき心の状態になることではないでしょうか。それは、感情とは違い、喜怒哀楽の特殊な色付けを持たず、強いて言えば、精神的高揚(もしくは逆)としか言い様の無いものです。それが「気分」です。

音楽音を耳にしたとき、聞き手はその力動的質を聴きます。その体験を通じて聞き手は「ある気分」を感じ取ります。正確には、その「気分」に浸ってしまいます。つまり、その体験によって「そういう気分になる」訳です。それは言葉に出来ない、喜怒哀楽とは違う、掴み所の無い、まさに「気分」です。そんな気分の状態の上に、今までお話しして来たような感情が呼び起こされると考える訳です。

つまり、作り手も自分の曲に浸っている時にはある「気分」になっていると考えられ、その気分とは、言葉に出来ない、対象を持たない(この状態は何かの属性ではないということ)心の状態であり、強いて言うならば状態の後で「あの音楽音を聴いていたから、あんな気分になっていたのだ」としか言えないものです。作り手が浸ったこの気分は、その音楽音を聴く他の聞き手にも同じ様に体験されるのではないかということです。

感情とは違って、特定の出来事やものごとにまったく依存しない、人に元より備わった心の動きというものがあり、それが「気分」と呼ばれるものだと考え、さらにそれは力動的質の体験によって動かされ得るのだと考える訳です。音楽における「共感」とはこの様なものだとすることが出来ないでしょうか。

気分とは、対象を持たないが故に真に主観的です。主観的であるからこそ、気分とは、聞き手の意識の全体を覆ってしまうのでしょう。気分とは、人の心の在り方そのものなのかもしれません。それだけに人間の自我に深く関わるものなのではないでしょうか。音楽を通じて共感されている「気分」とは、このようなものだと考えられます。非常に詩的な表現になりますが、逆説的に「”人々は共感出来る”ということを確かめるために聴く」ものが音楽音だ、という言い方が出来るのかもしれません。

そうなると作曲者としては、自分の作り出した音楽を耳にしている時の「気分」、その音楽に没頭している時の「気分」、すなわち精神的高揚(もしくは逆)がその様に聞き手にも伝わるのだ、という確信を持つことから始まると言えるのではないでしょうか。そして、作曲者が音楽に込められるものは、その気分の「強度」ではないでしょうか。さらに言うならば、その強度が大きい音楽を聴いたとき、その強さに応じた感動が作り手と聞き手の双方において得られるのではないでしょうか。

まず、作り手自身がより強く心動かされる様な音楽を創ることが一番であり、その意味において作曲とは、まず自分のために行うものと言えます。しかしそれも、聞き手と共感できるという確信が有ればこそ行えるものなのでしょう。

最後に

以上の様に、「音楽で共感できるということを肯定する物語を創ること」を行ってきたと言える訳ですが、観念的な表現が多くなってしまい解かり難い点も多々あるかと思います。それはひとえに私の理解と文章力の不足によるものです。将来、もっと受け入れやすい「物語」を提示できればと思っています。

私は以前、別のコラムにおいて「音楽現象は聞き手の感性の中に在る」ということをお話ししました。それは、「聴く」という行為において、或る本質を示しているという感触を持っています。ですが、「共感」という面からそのことを考えて行くと、どうしても「聞き手の自由」という点に囚われてしまい、作り手の込めようとする「何か」が伝わるという現実を実感できなくなってしまいがちです。

そこで、現実に体験していることをその様に受け入れ、当人なりに了解するために物語が必要だったのです。そこから何かしらの可能性を見付けることが出来るならば、クリエーターとして、これは大変喜ばしいことではないでしょうか。

作曲者が音楽に込められる「何か」とは、作り手の意識を覆った気分なのだと考え、作り手がそうなった様に聞き手もそうなると信じることから始まるのではないでしょうか。作曲の可能性とは、この位置から見えてくるのではないでしょうか。そして、皆さんには何が見えて来ましたでしょうか。(終)