レビュー『事典 世界音楽の本』徳丸吉彦/高橋悠治/北中正和/渡辺裕編

「世界音楽の本」という書名を見たときに先ず思い描くのは、ゴスペルやレゲエやラテン音楽、他には中東やアフリカ等々の世界中の音楽について、その音楽的特徴や成立過程の解説と参考音源の紹介がなされた本、各ジャンルの基本情報を網羅した本、といったところではないでしょうか。

つまり、「世界“の”音楽」についての事典、という風にです。しかし、そういった予想を元に本書を手に取られたならば、実際の内容を前にして大きな驚きと戸惑いを感じられることと思います。

編者もあとがきで述べているように、元の企画では文字通りエンサイクロペディア的な本としてスタートしたそうです。しかし、世界各地の音楽が文化的/社会的に独立/孤立して存在するものではなく、政治や経済などの影響によって異文化接触が重ねられ流動し変容を被ってゆくものである以上、そういった社会的力学の作用と反作用を無視して「百科事典的な羅列」を行うことには意味がない、ということから、このような個性的な事典として結実したそうです。

では、本書で言う「世界音楽」とは何を指しているかというと、それは「生まれた地域を越えて、世界のさまざまな地域で聴かれ、また、演奏されている音楽」のことです。いわゆるロックや西洋クラシック音楽などが真っ先に該当しますし、ラテン音楽やアフリカ音楽やアジア音楽といった、「民族音楽」という名のもと世界中で流通している各地の音楽なども、ここで言う世界音楽に該当します。

反対に、世界中にはその地域だけで成立している音楽もまた数多くあり、一般の耳に触れることはありません。そういった、生まれた地域を出ることなく外に広く知られていない音楽は、本書では「伝統音楽」という言葉で区別されています。

さて、本書ではこの世界音楽について、それらを固定したジャンルとして捉えずに、それらが生まれるに至った過程を強調することに重きを置いています。その地の音楽家たちが創意工夫へ至る内的変化や、異なる音楽様式との接触による変化を、社会的/政治的な影響や地理的/情報(録音)的な交流などを踏まえながら追っていきます。

本書は事典という体裁ですが、通読することによってまさに「世界音楽というもの」が成立していった様子が捉えられ、それを大きな視野で眺め考えることが出来るようになるでしょう。その意味では、優れた近代音楽史、音楽社会史として読み取ることもできます。

このように、全体のトーンとしては社会や政治に軸足をおいた作りになっているわけですが、本書の優れた点は「リズム(身体性)」と「音色(音響空間)」に本文の三割以上の紙面を割き、多彩な執筆陣によって多面的に扱われている点にあります。

その中には佐々木敦氏や大友良英氏の名前もあり、それぞれコラージュやサンプリングのこと、録音再生と批評性などについて、事典らしからぬ自在な文体で執筆されているのが面白いところです。

本書全体としては、民族音楽学の研究家をはじめ、長年フィールドワークを重ねた方や、演奏の現場に立つ方など、執筆者は60名を越えます。それぞれの立場からの(かなり自由度の高い依頼内容だったと思われる)その文章はとても生き生きとしており、単なる項目執筆という枠に留まらない内容の濃さと質があります。

ただ正直、世界各地の音楽や社会の歴史といった予備知識が乏しいと理解は難しいと思われますので、誰にでも手放しでお勧めできる本とは言えません。しかし、目次を眺めてみて「お、これは?」と興味を持たれた方は、ぜひ実際に本書を手にとってみて下さい。関心のある項目だけを拾い読みしても、その面白さ、知的興奮は十分に感じられるはずです。

書籍情報

『事典 世界音楽の本』
徳丸吉彦/高橋悠治/北中正和/渡辺裕 編
出版社:岩波書店(ISBN:4000236725)
2007年12月20日初版発行
サイズ:552ページ

『事典 世界音楽の本』の目次

  • 0 世界音楽の本   徳丸吉彦 高橋悠治 北中正和 渡辺 裕
  • 1 リズム――世界音楽の身体 あるいは 時間の側から   高橋悠治
    • 1.1 足のリズム
      • 歩きとビート / 行列 / 方向と中心 / 不均等なリズム / 支点分割運動とポリリズム
    • 1.2 手のリズム
      • イスラーム文化のリズム / 手がつくるリズム / 朝鮮半島のチャンダン
    • 1.3 息のリズム
      • アジアの声 息のリズム / 笛のリズム,尺八
    • 1.4 リズムの文化横断
      • 北米のシンコペーション / アフロ・キューバン / 機械のリズム
    • 1.5 声と歌
      • 声色 / 太鼓ことば・口三味線 /  かたる となえる / 歌の場 / ちがう声がいっしょに歌う / 歌芝居
  • 2 音色――世界音楽の感性 音響空間
    • 2.1 音色とはどういうものか
    • 2.2 楽器
      • 楽器の分類 / 楽器と音楽家の社会的な位置 / 「近代化」される楽器 / 西洋楽器の改良・変革・演奏方法の変化 / 
    • 2.3 音程
      • 音程の機能 / 音組織 / 調律法
    • 2.4 旋律
      • 表象 / 旋律型 / 装飾 変奏 即興 / 記譜法
    • 2.5 ノイズとエレクトロニクス
      • 音響合成 / 記録編集 / 演奏装置
  • 3 制度――世界音楽の法 あるいは 規制と管理
    • 3.1 国民国家権力下の音楽制度
      • 軍隊・規律・産業と近代西洋音楽 / 国民国家の成立とオペラ
      • 音楽教育制度
        • 専門技術教育としての音楽専門学校 / 演奏技法と身体
      • 音楽祭
    • 3.2 世界資本主義下の音楽制度
      • 音楽著作権と楽譜出版社 / 音響機器産業の発展とレコード産業 / 楽器製造業の近代化 / 音楽市場とマネージメント
    • 3.3 音楽学と音楽文化
      • 3.3.1 世界音楽学の形成史
        • 植民地調査と比較音楽学の成立 / 文化相対主義と民族音楽学 / 民族音楽学の現在
      • 聴衆の形成
        • 批評,プロデュース,聴衆 / 聴衆の変容
  • 4 20世紀音楽史――世界音楽の精神 あるいは 創造と変化
    • 4.1 世界音楽の成立
      • 西洋中心主義の衰退
        • 調性音楽の解体 / アメリカのジャズ・エイジとポピュラー音楽 / 1920~30年代の中南米モダニズムと大衆音楽 / ハワイアン
      • 反体制音楽運動
        • 労働者音楽運動 / ヴァイマール共和国のキャバレー文化
    • 4.2 国家主義と統制
      • 新古典主義 / ナチ・ドイツの音楽 / スターリン体制下の音楽 / 亡命者たちのブロードウェイとハリウッド / 映画音楽の戦略
    • 4.3 民主主義と民族解放
      • 俳優たちと移民たちの歌 / スウィングからビ・バップ,ビ・バップからモダン・ジャズへ / 都市中産階級の音楽 / 公民権運動とフォーク 
      • 植民地独立と国民音楽の創出
        • ウンム・クルスームとアラブ近代音楽 / 「第三世界」から「第四世界」へ / クロンチョンの国民音楽化 / カリプソとハイライフ / インドの映画音楽
    • 4.4 反権力の音楽と開発独裁への抵抗
      • 移民たちの音楽 / 亡命者のポップ / 反体制歌手たち / 1970年代ロック / 先住民族あるいは原住民の音楽 / 都市開発とゲットーの音楽 / 祝祭文化の政治性
  • 5 日本音楽の20世紀
    • 5.1 「近代化」政策
      • 国家共同体の歌 / 学校と職場の共同体意識 / 宗教共同体の歌 / 植民地音楽調査 / 植民地と「皇民化」教育
    • 5.2 戦前の大衆音楽
      • 輸入ジャンルの「日本化」の諸相 / オペラの「日本化」 / 「はやり唄」から「流行歌」へ / 「新日本音楽」と楽器テクノロジー / 「民謡」の再編成 / 「作品」としての語り物
    • 5.3 戦中期から現代まで
      • 「国民歌謡」から「国民合唱」の時代 / 愛国浪曲と「語り物」の戦時体制 / のど自慢とコンクール / うたごえ運動と「世界の民謡」 / 沖縄民謡から島唄へ / 日本の「ワールド・ミュージック」 / 歌謡曲からJ-POPへ
  • 6 グローバリズムと現代の問題
    • 6.1 ファイル交換の自由と著作権の南北問題
    • 6.2 音楽は何を運ぶのか
    • 6.3 伝統文化の保存と活性化
    • 6.4 異種文化の流用
    • 6.5 個の多様化とネットワーク
    • 6.6 さまざまな試みとそのゆくえ
  • 索引
  • 参考文献および引用・図版出典
  • 図版リスト
  • あとがき
  • 執筆者紹介

編者について

徳丸吉彦(とくまる よしひこ)

音楽学。聖徳大学教授、放送大学客員教授、お茶の水女子大学名誉教授。『民族音楽学理論』『岩波講座 日本の音楽アジアの音楽』(共編著)(本書より引用)

高橋悠治(たかはし ゆうじ)

作曲家、ピアニスト。『音の静寂静寂の音』『高橋悠治コレクション1970年代』『音楽の反方法論序説』(本書より引用)

北中正和(きたなか まさかず)

音楽評論。『世界は音楽でできている』『毎日ワールドミュージック1998-2004』『ギターは日本のうたをどう変えたか』(本書より引用)

渡辺裕(わたなべ ひろし)

音楽学。東京大学大学院人文社会系研究科教授。『考える耳』『日本文化:モダン・ラプソディ』『聴衆の誕生』(本書より引用)