呪縛に想う
以前、私が作曲をしていて思い煩う事が多かった呪縛と言えば、「表現したいことがあるのか」というものでしょう。これはどういうことかと言いますと、まず頭の中に明確なイメージ(音的なものに限らない)があって、それを音で表現しようと勤めるべきだという、そんな呪縛です。
正直言いまして、私の頭の中にドカンと音楽が沸いてくるわけではなく、こどもがブロックで遊んでいるうちに何だか面白い物が出来あがって行くような、そんな風にして曲が出来あがる事が結構有ります。
言い方を換えてみますと、映像や言葉のイメージを音で表現すること、つまり変換することには慣れていないのかもしれません。よくアーティストが「今回は何々をテーマに作りました」などと発言しているのを見るに付け、「よくそんな作曲ができるものだなあ」と常々思っていました。
そんな私でしたから当然、「表現するべきテーマが見つからない」などということを問題として考えてしまうわけです。でも、頭の中で音と戯れたり、楽器に向かえば現実に作曲は出来るのですから、自覚していないだけで根幹となるテーマを持っているのかもしれません。
そんなこんなを思ううちに、これは呪縛だと思い始めました。私が作曲をしていて面白いと思う時というのは、自分が受け入れている束縛にそって音を紡いでいって、それがあるフォルムを形作って行くさまを眺めるときです。まさに子供がブロック遊びをしているのと同じ状況です。音を操ること、そして、そこから生まれる音楽に立ち会う事が楽しいのです。
作曲を始めたばかりの頃は、曲作りが進むこと自体が、つまり時間という名の空間が埋まって行く事が楽しくて、音と戯れていたように思います。つまり、何のために作曲するのかではなく、作曲によって何を表現するのかでもなく、ただ作曲という行為が目的としてあるのです。
そうして出来あがった曲には、自分が楽しんできた作曲の過程が織り込まれていると感じます。強いて、表現しているものを上げるとすれば、その過程の苦労や発見や感動といったものでしょうか。しかし、こうして文章にしてみると、どうも感触が違う様に思えます。
やはり未だに、この呪縛から自由ではないのでしょうか。そもそも呪縛だと意識していることによって、私の中にこの様な別の視点を生み出したのでしょうか。やはりもっと作曲を続けないといけないようです。