新曲が出来ました&考えごと
曲名は『越後獅子の庭(えちごじしのにわ)」』です。
『越後獅子の庭』 MP3(7.6MB)演奏時間 6分37秒
→echigojishi_no_niwa.mp3
全編にわたって執拗に変奏を続ける三味線パートと、不規則に停滞と変化を繰り返すリズムパート、これらの絡み合いを通じて自分流の時間構成を模索してみた曲です。
いわゆる「イントロ~Aメロ~」や「3部形式」といった既存の形式枠に囚われないよう、自分の時間感覚と向かい合うことを念頭に置きました。
作曲中に想定していたのは、月を見上げながら歩いたときに感じる「月が自分に付いてくる感覚」のような停止感(滞留感)と、「目を下ろして周りを見渡したときの景色の変化」というギャップ(断絶)感のことでした。
使用した音色素材は、三味線、太鼓、唄の断片、ドラム&ベース、シンセサイザー各種、特殊打楽器などで、いつものようにPC上で打ち込みと編集を行いました。
一時期はジャズ畑にいたこともあって、即興演奏とは親和性があるほうだと思います。この曲でも、主軸になる流れは即興によって構成してあります。いくつもテイクを重ねるうちに、全体の時間の姿が手のひらに納まってくる感覚が出てくるのですが、そうなるかどうかはその場の状況次第です。
さて、録音という「時間の編集」の手法が登場したことで、音楽には「ライブ(演奏)アート」に加えて「録音アート」というフィールドが生まれたと言われます。
前者では「奏者と聴衆の相互作用」で一期一会の音楽が生まれるのが特徴で、「音楽を通じた共同体感覚」をもたらし、大小の社会的意味合いも持つものです。このことは、古来人類が音楽と共にあった理由としても挙げられています。
ひるがえって、「録音アート」というフィールドに向き合ってみると、その位置づけを曖昧にしたままで接し続けている自分にいつも気付かされます。言い換えると、曖昧にしておくほうが身動きが取りやすいというのも正直なところでしょうか。
「音楽の場」の問題、つまり「音楽体験はどこで生まれ共有されるのか」という問いかけは、基本的かつ多彩な認識をもたらすものです。ライブアートでは自明とも言えるこの問いは、録音アートにおいては途端に答えが拡散します。
それは、演奏の記録という側面と、音の生成と編集によって「鳴り響く時間」をゼロから生み出すという側面との、二つの極端な性質がもたらす結果なのかもしれません。
さらには、空間を音楽で満たす装置は紙や樹脂で出来た多種多様なスピーカーという代物であり、鳴り響く場のコンテクスト(どういう人々がどういう経緯と状況でどのように音楽体験をするのか)も千差万別です。
『越後獅子の庭』を作曲・制作しながら、そんなことをあれこれ考えていましたが、結局のところ自分の場合、「音楽への問いかけ(もしくは自問自答)」のプロセスを表現したものがたまたま音楽の姿になっているのかな、などと、ぼんやり思い至りました。
ちなみに、タイトルにある「越後獅子」とは、いわゆる江戸時代の新潟の少年獅子舞(とその悲哀)のことで、長唄などでも有名ですね。
それでは、お楽しみ頂ければ幸いです。