赤毛のアンのエンディング曲『さめない夢』の凄さと魅力
アニメ音楽の中には時折、キラ星のような名曲が現れるものです。「子供向けだからこそ本当にいいものを」という気持ちが込められた作品との出会いは、それを耳にした子供時代にとどまらず、生涯の思い出の一つとなり得るものだと思います。
今回は、そんな作品の一つ、赤毛のアンのエンディング曲『さめない夢』を取り上げてみます。
赤毛のアンは説明不要の名作で、高畑勲監督をはじめとする豪華なスタッフによって手掛けられましたが、その中でも光彩を放っていたのが作曲家の三善晃氏で、そのオープニングとエンディング曲はまさに「子供向けだからこそ本当にいいものを」という思いの詰まった名曲でした。
当時のアニメ主題歌&エンディング曲というものは、子供たちが口ずさみやすいような平易な(かつ面白がれる)メロディーと伴奏が用いられるのが一般的でしたが、このエンディング曲『さめない夢』において三善氏は、言うなれば「本気のアリア(叙情的な独唱曲)」を子供たちへ向けて贈ったのでした。
その音楽の持つ力、表現された世界観、叙情性といったものを前にした高畑監督は、エンディングアニメをあえてスタッフの名前を列挙するだけの静止画スタイルにした、という逸話が残されているとのことです(真偽は確かめられませんでしたが、演出としてこのスタイルにすることは当然のことだったろうと思います)。
ちなみに、本編BGMは三善氏の直弟子である毛利蔵人氏が担当し、赤毛のアンの世界観を音楽面で豊かに支え膨らませました。
これほどの音楽制作陣がその後も多くのアニメを手掛けてくれていたならば、と思うところですが、残念ながら本作のみの夢の舞台ということに終わってしまいます。それだけに、この『さめない夢』の持つ魅力は掛け替えのないものとして、その存在感を増しています。
全体としては、アンの善良さ、想像力の豊かさ、日々の喜びと哀しみ、その心の揺れ動きというものにそっと触れたかのような、そしてそこから伝わってくる彼女の“強さ”にこちらの胸が震えるような、そんな印象を覚える曲です。
前半部分のコロコロと愛らしく奏でられるピアノのアルペジオ、中間部でたかぶるオーケストラ、音塊の潮が引いた後に舞い降りるような姿で下降してくる弦楽器。そして、場面に応じた表情の変化を与えながら、大和田りつこ氏の伸びのある歌声がアボンリーの日常を紡ぎます。
毎週の放送の最後、『さめない夢』を聴く子供たちの中では、この感受性豊かな少女を彷彿とさせる曲を通じて、それぞれのアンのイメージ、アンへの思いが育まれていったことでしょう。
『さめない夢』のオーケストレーションをひも解いてみる
僭越ながら、そんな魅力的な『さめない夢』について、その凄さを管弦楽法の技術的な側面から見てみたいと思います。
編成は、音源を聴いた範囲では木管がない変則的なスタイルになっており、さらにはフレンチホルンやチューバはおろかトランペットも聞こえず、思いのほか削ぎ落とされた編成になっています。
世間では「豪華なオーケストラによる演奏」というイメージで伝わっていますが、これは、実際の編成規模を大きく越えるスケール感を創出することに成功しているという意味で、三善氏の音楽感覚の鋭敏さと手腕の凄さが表れているものと言えます。
その手法の内容は、当時のスタジオ録音での制約された環境の中にありながらも、多様な打楽器群を(『きこえるかしら』他ではサクソフォーンも)導入して色彩を豊かにすることや、対位的に各旋律を縦横に奏でることで音楽的な情報量を豊かにする、というものが挙げられます。
さて、冒頭の2小節ではピアノのアルペジオと一緒に、弦楽器群が上昇するフレーズを奏でているのですが、そこへシンバルロールのクレッシェンドが合わさることで中高音域がサポートされ、さらにシンバルが終わるタイミングに重なるように、次の3小節目からはハープが控えめなグリッサンドでフォローに入り、ここでの高音域のヴァイオリンの下降フレーズを支えています。
こうして、少ない楽器で音響的に満たされた場を作る形になっているのですが、これは、ピアノのアルペジオの響きを壊さないように全体のボリュームを抑えつつ(無闇に楽器を鳴らさず)、曲の始まりらしい響きの豊かさを得るための効果的な方法の一つと言えます。
イントロから歌の伴奏へと続くピアノのアルペジオですが、「はしっても はしっても」と歌い始まってからはマリンバのアルペジオが重なり、コロコロとした響きに花を添えるように彩りつつ、雰囲気をさり気なく変化させているのが分かります。
その同じところからの弦楽器パートでは、バス声部が対位的な動きを取っており、歌の進行に合わせてぐんぐん下降して行き、そのまま中間部の全合奏へとクレッシェンドしながら合流するフレージングになっています。
パッと聴いた感じでは、軽やかに疾走するアルペジオと歌声の爽やかさに注意が向きがちですが、このように弦楽器パートでは、その後の盛り上がりへ向けた予告的なフレージングが織り成されており、来るべき山場への予兆を無意識の内に感じさせる一助となっていることが伺えるのです。
そして歌は一旦止まり全合奏による山場を迎えるわけですが、ヴァイオリンとトロンボーンによるフレーズは直ぐに二手に分かれ、トロンボーンはさらに複数のラインに分かれて各々に対位的な動きを重ね、コンスタントなティンパニのリズムを背景に強さを増していきます。
この山場で注目すべき点の一つはリズムです。拍子の頭で力強く揃っていた各パートのフレーズは、終盤でシンコペーションを伴って前のめりにずれていきます。別の言い方をすると「フレーズが収縮していく感じ」です。規則的だったティンパニのリズムも、ここで同様にシンコペーションを見せていきます。
こうした操作によって、言わば「コントロールされた崩れ」がなされていると見て取れ、聴き手に対してリズム的な調和の一時的な喪失を感じさせ、それが次の場面への期待と高揚を呼び起こしているように感じます。
また、この盛り上がりの部分では、ヴァイオリンのフレーズのアタックを際立たせるために途中からマリンバが重なってくるのですが、盛り上がりがピークに近付くと、マリンバのフレーズはヴァイオリンよりも細かいパッセージへと移行し、その下降型の繰り返しフレーズは音が降り注ぐような印象を与え、この盛り上がりのピークをさらに彩るのです。
対位的な動きによる音の運動性と併せて、音の色彩感や装飾的な華麗さにも十分な配慮が図られており、その隙のない筆致はさすがという他ありません。
全合奏によるピークを越えて、フッと中~低音域の楽器群が沈黙し、ハープのグリッサンドと併せてヴァイオリンが駆け上がり、「花の中で 一日は終る」の歌と共に、弦楽器群が高音域からゆっくり中音域へと二拍ずつ和音をつなげていく場面は、先ほどの“崩れ”を経たことにより、効果的で上質なカタルシスポイントになっているのが分かります。
そこは激しい全合奏の直後ということもあって、「低い周波数の音がもたらす隠蔽作用」がクリアされていることが際立ち、密集配置の弦楽器が濃密にかつクリアに響いており、音の密度の高さを維持しつつも明瞭感がある響きになっています。そこにふわりと歌声が入ってくる瞬間は何度聴いても素晴らしいものです。
ここで再びコロコロとしたアルペジオが登場しますが、ここはピアノではなくグロッケンシュピールで奏でられており、こうした細やかな音色変化への意識は大いに勉強になるところだと思います。
放送では一番だけで曲は終わりになりますが、本来は二番へと続き、ことばを尊重したメロディー変化を伴いながらさらに歌い上げられていきます。
そうして最後に終結部に至るわけですが、軽いリタルダントを経て閉じられるこのラストの主和音の根音は、ピアニッシモのティンパニロールで奏でられており、それによって弦楽器の三度と五度をまろやかに支えています。
この響きは、弦楽器を用いた場合のそれと比較して倍音構成が穏やかなものになるため、アンという少女の歌の締めくくりの響きに相応しいものと言え、このように構成した作者の慧眼には頭が下がります。
音程のある打楽器は第一にリズムを強調するものとして用いられがちですが、音域と強弱に応じた音色特性を把握した上で、ここでのように持続する音色素材として用いることも大変有効なものです。
これは重要な管弦楽法上の資源のひとつであり、名人と呼ばれる作曲家たちの作品に見られる特徴のひとつと言えます。コンパクトで穏やかなこの終結部は、作者の力量と本気を感じさせるラストと言っていいのではないでしょうか。
以上、『さめない夢』の凄さと魅力を、違った角度からお伝えできたならば幸いです。