PCとシーケンサを一新(前編)

さて先月、パソコン(PC)周りの環境を一新しました。これまでも、「もういい加減に新しくしよう」と何度も思いながらも、「これはこれでまだ使えるんだし……」などと先延ばしにしてきましたが、一念発起、遂に一新と相成りました。

今まで使っていたPC機材やソフト等は、既にメーカーによる開発が終了したものが多く、「歩みを止めて化石へと変わり行く機材たち」といった風情を漂わせていました……(笑)。

ですから、何かデジタル技術的に新しいことを取り入れようとしても、その環境では動作しないというケースが年々増えていましたので、なにかと窮屈な思いを感じていたのが正直なところです。

(※ちなみに具体的な一新内容ですが、制作の要であるシーケンサを、これまでのLogic(もう7年落ち)からSONARへと乗り換え、PCはCore2Duo搭載のミドルクラスのものにし、これまでの環境では動かなかったために指をくわえていたソフト音源(楽器)を今回、晴れて導入したといった具合です。Mac&Logicに戻ろうかな、という気も少しありましたが、総合的に考えてWindowsに留まることにしました)

そういうわけで、これから環境一新にまつわることを書いていこうと思いますが、内容としては“できごと”ではなく“感じ思ったこと”を中心にしようと考えています。

それでは、最後までお読み頂ければ幸いです。

環境一新の大きな柱は、パソコンとシーケンサ(音楽制作ソフト)です。今回はそれら「ハードとソフト」の検討を並行して行いました。細かいことを言えば、他にも色々と検討対象があり、実際に導入したものもあったのですが、今回の話の中ではこの二つを取り上げます。

さて、最初はパソコンについてです。私の音楽制作で重要な働きをしてくれる、文字通り文明の利器ですね。このパソコンの中で、シーケンサも楽器もその役目を果たすことになるわけですから、言うまでもなく、ちゃんと動いてくれないと大変困る機材です。

はっきり言って、PC業界に関しては浦島太郎状態でしたので、的確な導入へ向けた段取りは色々と大変でした。

PC関連のハードウェアに関することを学び直しながら、必要充分なだけの性能を見積もり、その後はネット上で、PCショップのセミ・オーダーメイド品を探して回ったり、等々。

しかし今回のことを通じて、Windows OSのメモリ管理方法を中心に色々と勉強できたことは、PCを楽器として扱う者にとっての大きな収穫でした(それがなぜ収穫だったのかは専門的話題なので割愛します)。

そのなかで改めて思ったのは、解らないことをネット検索で調べる際、それが正しいか、もしくは妥当かどうかを、ついつい「検索結果の表示順位や多数決」で計ってしまおうとすることは、想像以上に大きな罠になり得るぞ、ということでした。

肝心なのは、「その答えが前提としている状況」を正しく把握することであり、また、論拠となるものの存在とその信憑性・信頼度であり、結局は当たり前のことに行き着くものだなと痛感しました(笑)。

何せ、ネット上での常識や知恵が逆に大きな落とし穴だった、というケースがあったりしましたし、ネット上でよく目にするOSの基本的な推奨設定ですら、こちらの首を絞めるものだと解った例もありました。

ちなみに、その罠を回避した先の真の回答は、例えば、皮肉にもマイクロソフト(MS)が一般公開している情報の中にちゃんと銘記されていたりします。

ですが、なぜかその情報はあまり知られていなかったり、軽視されていたり、さらには「MSはそう言うけれど、こうするほうが実際には良い」として、ネット上のある分野では別のコンセンサスが成立していたりするのです(脚注)。

(脚注。例えば、Windows XPでメモリ使用法を「システムキャッシュ」に設定するという有名な推奨設定がありますが、MSのサイトには「これはサーバ用途専用のモードであり、一般的なPCではむしろパフォーマンスダウンを起こしたり不安定要素を増すので注意」という旨、書かれています。しかしこの設定はWin2000時代以降、永らくチューンアップ法の基本として、分野を問わず広く流布されて来たものだったりします)

結局、急がば回れということで、「新しい物事を知るに際しては、その概念の理解を目指し、自分の中でのモデル化を果たせ(訳:全体を模式的にイメージできるようになろう)」という方針に沿って、“にわか勉強”に勤しむことにしたわけです。

用語の理解をある程度済ませた後にハウツーを探し出すというやり方は、最短距離の方法である反面、結局は「偉い人がそう言ってたから」の域を出ません。それに、それが自分のケースに本当に合った回答なのかという確信も無いまま、今後のトラブルへの大きな不安を残すことにもなります。

対して、「そもそもマルチタスクOSにおけるアドレス空間とは」とか「仮想PC概念の実装としてのWindos」云々かんぬん――といったことを、ざっくりとでも理解していくことによって、本当に気を使うべき部分と気にしなくて良い部分とが、おぼろげながらも見えてくるものです。

「行うは難し」でありましたが、Windowsに対しての誤解や理解不足がいくらか改められたように思います。結果的に現時点での自分なりの納得を得ることができ、その結果、新しいPCは想定通りの堅調さで動いてくれていますので、とても満足&安心しています。

我ながら少々度が過ぎていると思わなくもありませんが、私にとって、こういった経緯を踏むことの必要性とその意義は、ギターなどの楽器をオーダーメイドすることとある種、同じなのかもしれません。

楽器のオーダーメイドも多種多様ですが、そのプロセスの中でどんなこだわりを貫いたり、理解の道を歩もうとするのかといった部分で、その人のスタイルが自然と浮かび上がってくるものだと思うのです。

例えば、ギターを一本つくってもらうにしても、材料の木材ひとつどうするか、ボディーと指板の材質の関係について、それらがどういった特徴を持っているのか、そのことが自分の音楽とどう関係するのか、どれを望みどれが好ましいのか、等々……。

そして、それらの答えを求めて古今の知識と知恵に学び、工房へ出向き職人と会ったり、そこで教えを請うたり、さらには職人の楽器論に触れ、果ては人生論を拝聴したり、巡り巡って自分の内面を見つめたりetc.――。

私の場合、そうして出来上がった楽器を手にしたときに感じる、ある種の“確信”がとても好きですし、また、分野を問わずそういったことを望んでいるのだと思います。

「動けば(鳴れば)いいじゃん」という言葉が頭の上で聞こえたりもしますが(笑)、自分の気質はそうそう変えられませんしね。

別の角度から少々大げさに例えるならば、このプロセスは儀式であり祭典なのかもしれません。強いて言えば「地鎮祭」でしょうか。大きな工事の前とかに、神主さんに祝詞を上げて頂いてお浄めをする、というものですね。

そうやって儀式的なものとして捉えてみると、思い入れの強い物事に対して、ちゃんと真剣に(というか熱中して)調べ物や勉強をして納得しないと気が済まないというのは、ある意味で合点がいきそうな気もします。まあ、罰を畏れて萎縮しているのでなければ良いのですが、はてさて……(笑)。

さて、そんなこんなでPCが新調されていったわけですが、本当の大事はシーケンサの乗り換えです。

「PCとシーケンサを一新(後編)」へ続く)