古今の音楽家たちの「作曲に関する発言」その3
■国安 洋(美学者)
「日常では我々は音楽を聴きたいように聴いている。それは個性的であるとして好ましい聴き方ともみなされている。しかし、これも美的享受とは無縁であるばかりでなく、我々の聴体験にとって決して好ましいことではない。聴きたいように聴くことは、聴きたいようにしか聴けないことを意味しているからである。これは耳の硬化あるいは偏向化であり、耳の暴力になりかねない」国安洋 著:「《藝術》の終焉」より
■国安 洋(美学者)
「(上記から続く)聴体験には多様な聴き方が必要であろう。音楽が違えば聴き方も違うからである。(中略)多様な聴き方は、聴きたい様に聴くことではなく、音楽に即した受容である。ということは、藝術として音楽にはそれに固有の受容の仕方があることを意味している。“まじめな音楽”にはそれに即応した“まじめな受容”の仕方が要求されるのであるが、それが鑑賞にほかならない。そしてこのことは、反面、鑑賞はどの音楽にも対応するものではないことを意味している。つまり、どんな音楽も鑑賞を要求しているわけではない」国安洋 著:「《藝術》の終焉」より
■クロード・ドビュッシー(作曲家)
「音の建築における一つの和音なるものは、建造物における石材一つと同じ重要性しかもっていない。そしてその和音が本当の値打ちを持つのは、それが占める場所によってであり、旋律のしなやかな曲線に対してその和音が差し出す支柱ゆえなのだ」クロード・ドビュッシー 著:「音楽のために」より
■ピエール・ブーレーズ(作曲家)
「音楽家は、分析的な内省に身を委ねようと思うや否や、いつだって胡散臭く思われるんだ」ピエール・ブーレーズ 著:「参照点」より
■武満 徹(作曲家)
「音楽作品は“音”を媒介として、精神によって捉えられた事実なのであり、その意味で、作品はまったく具体的なのである」
■ベラ・バルトーク(作曲家)
「全ての芸術は、先立つ時代の芸術にその根を持っているべきものである。そして根を持つだけでなく、それから育たなければならないのだ」ベラ・バルトーク 著:「バルトーク音楽論集」より
■濱瀬 元彦(ベース演奏・作曲家)
「音楽において最も困難な仕事は基礎理論の確立から実際に音楽を成立させるためのシステムを構築するまでの作業である。極論すれば、ある音楽家の音楽性の高低は、その音楽的システムの優劣の問題であるということができる。(中略)このシステムを人は音楽経験、音楽知識の総体をさすものとしてとらえているはずだ」濱瀬元彦 著:「ブルー・ノートと調性」より
■濱瀬 元彦(ベース演奏・作曲家)
「(上記から続く)そして最も重要なことは個々のシステムの拠って立つ根拠を徹底的に追求し、可能な限り既存の前提を越えた立脚点を
獲得することである。音楽的に遠くにいくにはこれしか方法はないのだから。誤解されると困るので書いておくが、私はシステムそのものが音楽であると主張しているのではない。ひとりの音楽家が抱く音的イメージの具体化としてシステムが構築されないのは悲劇であるからだ。方法と作者の情感の交差のない音楽の悲惨さがこの悲劇だ。作者の自我の解体としての音楽などと詭弁を使ってはいけない。音楽とニヒリズムは共存できないのだ」濱瀬元彦 著:「ブルー・ノートと調性」より
■濱瀬 元彦(ベース演奏・作曲家)
「(上記から続く)従って音楽のさらに現実的な困難さは、自分の音的イメージの方向にシステムを作り上げていこうとする欲望の強度の存否の問題となる。音楽表現が一定の水準に達するには優れたシステム(構造)と作者(作曲家、演奏家)の情感のしなやかな交合がなければならない。一人の音楽家のそうしなければ納得できないという欲望の存在以外にはこれを実現する契機はないのである。そして、私達が音楽に聴くものは一人の音楽家の宿命的なこの欲望と彼の資質との格闘の姿なのだ」濱瀬元彦 著:「ブルー・ノートと調性」より
■オーネット・コールマン(サックス演奏家)
「自分のことであれ他人のことであれ、人がどう感じているかを音で述べる、描写するなんてことはできない。できるのは“ムード”を表現することだ」山下邦彦 著:「坂本龍一・音楽史」より
■フランク・ザッパ(作曲家)
「現代の“和声の教科書”は、カタログという形態で姿を現したこの種の悪魔の化身だな。(中略)長い間“偉大なる芸術”として認められてきた多くの作品は、この“いまいましい慣例”の臭いにまみれている。(中略)ティン・パン・アレーやジャズのスタンダードは II -V- I の花盛りっていう感じだな。俺にとっては、これはいまいましい進行(hateful progression)だよ。(中略)俺にとっては II -V- I は、悪い“白人音楽”のエッセンスだね」山下邦彦 著:「坂本龍一・音楽史」より
■原 博(作曲家)
「ターザンの雄叫びからから発して五つの音の発見、旋法から調性、そして機能する調性、次にあらゆる転調法や和声法が極められた。したがって“次にやって来る”のは不可避的に“機能しない調性”である。ドビュッシーたちのやったことは、ちょうどその位置に当たることだった。これは実際のところ、誠に稀有の鉱脈であった。しかしすぐに掘り尽くされた。この後に続いたのは不可逆性の呪文に金縛りとなった作曲家たちの盲目的な乱掘であった」原博 著:「無視された聴衆」より
■キース・ジャレット(ピアノ演奏・作曲家)
「僕が誰かをインプロヴァイザー(即興演奏者)としてどれだけ優れているか、どれだけ本当に知っているかを試すには、まず五度を弾かせるんだ。だからピアニストだったらこう左手で五度を弾く、そして右手は何か重要なことが自分に聴こえてくるまで何も弾かない。四度だと、いったんそのサウンドが聴こえると、すぐみんな右手でこう滅茶苦茶に無意味なことを弾いてしまう傾向がある」山下邦彦 著:「坂本龍一・音楽史」より
■チック・コリア(ピアノ演奏・作曲家)
「きみの夢に奉仕するテクニックを結集させよ。きみの夢に奉仕するようなテクニックを創りだせ」山下邦彦 著:「チックコリアの音楽」より
■武満 徹(作曲家)
「音は消える。ちょうど印度の砂絵のように。風が跡形もなく痕跡を消し去る。だが、その不可視の痕跡は、何も無かった前と同じではない。音もそうだ。聴かれ、発音され、そして消える。しかし消えることで、音は、より確かな実在として、再び聴き出されるのだ」
■武満 徹(作曲家)
「たぶん、私は、変化しないだろう。なぜなら、私は、音楽を通して、自分を、絶えず、“変えたい”と希求し、だが、その変化への欲望を持続することにおいて、私はけっして変化しない。これからも私は、ある人々にとっては、音楽以前であるような音楽を書き続ける。だが、異なった価値観は対立するものではなく、無数の価値観として偏在するのであり、二元的に括れるものではない。そうした認識に脚(た)てば、批評という行為はきわめて有効であり、社会性をもったものだと解かる。そして、批評というものがもっとも尖鋭に、純粋な形で顕われるのは、創造においてである。創造は批評であり、そのことで、創造はまた、他の批評と出会わなければならない。そして、その時、その“場”に生ずるものこそが本質的な変化というものであり、個人的な作風の変化等は、“変化”にとっては、かならずしも本質的なものではない」
■ラルフ・カークパトリック(ハープシコード演奏家)
「大抵の場合バッハは楽器そのものでなく、楽器を超えた何かを示すため鍵盤楽器を用いている。もし彼の四声か五声のフーガを鍵盤楽器の出す音だけに注意して聴くなら聞こえてくるのは・・・むしろ無味乾燥に並べられたさほど面白くもない和音である」ニコラス・クック 著:「音楽・想像・文化」より
■チャイコフスキー(作曲家)
「メロディーは単独で成立するものではなく、いつもそれに付随したハーモニーがあります。音楽のこの二つの要素は、リズムとともに離れがたいものです。どんなメロディックな楽想でも、それ自体の固有のハーモニーがあり、それにふさわしいリズムがあります」千倉八郎 著:「大作曲家があなたに伝えたいこと」より