古今の音楽家たちの「作曲に関する発言」その4

■武満 徹(作曲家)
「自然なものを大事に・・・人間も自然の一部でやっぱり自然・・・自然というよりも、宇宙だよね。もっと宇宙的な仕組み、システムを本来のものに、元々の姿にしとかないと。音楽なんかをやるっていうのは、結局、そういうコスミックなシステムっていうのを恐れる、敬う、尊敬するっていうことだと思うんですよ。まあ、そこまで僕の音楽はいってないけど。その一つの形、形式、音楽はその一つの形。イマジナリーな自然だ」

マリオ・A 著:「カメラの前のモノローグ」より

■武満 徹(作曲家)
「音は私たちの感性の受容度に応じて、豊かにも貧しくもなる。私は音を使って作曲をするのではない。私は音と協同するのだ」

武満徹 著:「時間の園丁」より

■オリヴィエ・アラン(批評家)
「和声とは、歴史的にみると、自然の音の世界が提供する材料を経験に基づいて開発し組織化する作業である。他のさまざまな文化活動と同様に、和声も西洋人の努力の賜物としての特徴をそなえている。なぜなら和声とは、自然をとりわけ人間的に利用するために、つまり頭と心の両方によって、もっとも広い意味で精神物理学的に自然を利用するために、知識と実践によって自然を支配しようとする、ひとつの努力に他ならないからである」

オリヴィエ・アラン 著:「和声の歴史」より

■大村 哲弥(作曲家)
「聴き手の予測を裏切り続ける構造は、時間芸術にとって不可欠な要素である」

大村哲弥 著:「演奏法の基礎」より

■シェーンベルク(作曲家)
「音楽は、なにかを表現する芸術だという考え方は、一般に認められている。しかし、チェスはお話を語らないし、数学は感情を呼び起こさない。これと同じように、純美学的な見地からいえば、音楽は音楽以外のものを表現しないのである。しかし、心理学的な立場から見れば、われわれの知的、感情的連想の能力には限度というものはなく、むしろ、そうした連想を拒絶する能力のほうに限りがある。したがって、どんな平凡なものでも音楽的連想を呼び覚ますことができ、また反対に、音楽は、音楽以外の事物との連想を呼び起こすことが出来るのである」

シェーンベルク 著:「作曲の基礎技法」より

■テオドール・アドルノ(音楽社会学者)
「音楽がすべての芸術と同じく、かつて偉大な哲学によって“理念の感覚的な現われ”と名づけられたものであるとするなら、音楽教育はまず音楽的な想像力を促進し、また音楽を心の中の耳で具体的かつ正確に、まるで生々しくそこでそれが鳴っているかのように想像(表象)するすべを生徒達に教えねばなるまい。音楽の正確な想像は、およそ音楽の生命とも呼んでいい精神性と感覚性の間の緊張が解決されるための決定的な条件である」

テオドール・アドルノ 著:「不協和音」より

■テオドール・アドルノ(音楽社会学者)
「(上記から続く)教育はもちろん現実の感覚的な現象を扱うこととそれを造り出すことから始めねばならない。しかし、単に音楽を作ることが、素人細工じみた行為が手段から目的になってしまうと、音楽教育はその目標とは正反対の方向をたどることになる。新しい意味で劣等な音楽、つまり盲滅法の音楽行為への衝動を満足させることを目指した音楽の偏愛という現象は、音楽教育のそのような狙いの転倒の表われである」

テオドール・アドルノ 著:「不協和音」より