佇む者に圧倒される

私は、昼夜を問わず一人で自動車を走らせることを楽しみの一つとしています。目に飛び込んでくる風景を刺激とし、抽象具象あれやこれやの想像世界に半歩踏み込みつつ、他の車やひと気の少ない山道や田舎道を行くのです。

ある夜に山道を走っていた時です。景色が開けた正面に、高さ数十メートルはあろうかという巨大なロボットの影と赤い瞳が現れました。

正体は何のことはない「高圧電線の鉄塔と塔頂のライト」だったのですが、その姿には有無を言わせない超然とした存在感があり、私は圧倒されると共に漠とした怖れや不安を感ぜずにはいられませんでした。

最初それは、自然の造形に感じる畏怖の念とは対照的な、人工の造形に感じる“作者の意思”とでも言うようなものに対して感じたのだと思いました。

しかし、どうもしっくりこないので、感じたことや印象をあれこれ見つめ、そして以下のような思いに至りました。

──高圧電線の鉄塔の一つとは、社会インフラとしての要請をもって多数の人々の頭脳と労力を介して生み出された物の一つであり、大げさに言えば「文明向上への意思」という大きな力の現れだとも言えるでしょう。

その結果鉄塔は、「特定の作者と被造物」という一対の関係を越えたものの象徴となり、そこには大きな意思の発露の証という姿が浮かび上がるのです。

鉄塔は他の巨大インフラとは異なりその現場に人の姿はありませんし、機能している姿はとても静的なものです。そこに佇むのみです。

凛と佇むその赤い瞳の巨大ロボットは、恐らく何かを眼差し見守っているのでしょう。そしてその佇まいからは、人々の念が静かに集合しているように感じられたのでした。

それは善し悪しや是非といった単純な価値判断を飲み込みつつも拒み、ただ証として、人々の営みの象徴として佇立するが故に、その姿に圧倒され恐れと不安を感じたのだと思うのです。

その存在が自らを誇示するでも嘆くでもなく、否定も課題提起もせず、ただそこに己を証として立てんとする者の何と強く恐ろしいことでしょう。それが象徴するものの何と大きなことでしょう――。

何かに圧倒される体験というのは突然思いも寄らなかった方角からやってくるものだ、ということを再認識した一件でした。