ユーリ・ノルシュテインのアニメ作品を観て
ノルシュテイン氏は、『霧につつまれたハリネズミ』や『話の話』など、その詩情あふれるアニメーション世界の深みと繊細さから、数多くのアーティストからリスペクトされているアニメーション作家です。
最近、氏の作品をまとめて観る機会があり、素朴な感動とともに自分の音楽制作のことを考えさせられました。
ノルシュテイン氏の作品は、原画を手作業で動かしながらコマ撮りしていくという手法で作られており、その気の遠くなるような膨大な作業は、奥さんと助手を含めた三人だけで行われているそうです。
ディズニーや宮崎アニメを始めとした巨大な作品とは異なった、とてもプライベートな制作スタイルでそれらは生み出されており、隅々にまでつくり手個人の思いが染み渡った作品からは、そこでしか味わえない個性の強い薫りがします。
それならばアクの強い独りよがりな作品なのかと言えば全く逆で、世界各地に熱いファンが存在することからも伺えるように、文化を超えた感動の強度を持ったものなのです。
「素晴らしい作品はそれを体験する前と後とで、観る者の何かを決定的に変えてしまう」と言われるように、ノルシュテイン氏のアニメーションにも同様の力を感じます。大げさかもしれませんが、個人の問いや表現が普遍的なものにつながるということの実例のひとつ、そんな風に言っても言い過ぎではないと思うのです。
現在も制作が続けられているゴーゴリ原作の『外套』は、すでに20年以上もの時間が費やされていて、なおも半分ほどが未完成と言いますから、その粘りとこだわりには驚きです。
ノイシュテイン氏は、「『外套』の大まかな構想を持っているが、これからこの作品がどう変わっていくか、自分でも分からない」と述べており、また、「作品を作っていく中で、制作過程そのものから多くのことを学んでいる」という趣旨の発言もされています。
手元にある完成のイメージに忠実に形作るのではなく、制作中の作品と作者との対話が作品を育ててゆく、そんな制作の在り方には強い共感を覚えます。そしてこの方法で全てをつくり進めて行くことは、プライベートな制作だからこそ可能なのだとも言えるでしょう。
そして、そこに自分の音楽制作のスタイルを省みる切っ掛けがあるように思うのです。改めて言うまでも無く、ひとりでは困難なこと、多くの人々との共同(コラボレート)だからこそ成し得ることが、表現の世界には数多くあります。
しかし、ひとりだからこそ深められること、目の前の作品とひとりで対話し続けることによって開かれる世界もまた、表現の世界にはあるということに思いが至ります。
音楽制作における、DAW(デジタル・オーディオ・ワークステーション)を中心としたデジタル編集環境──。これにより、これまでの「共同による音楽表現」という王道はもとより、個人の音楽的イマジネーションを表現する手段も大きく広がりました。
この、20世紀の技術発展という“時代の申し子”、かつ、非リアルタイム性(ノンリニア性)を持つがゆえに“音楽の鬼子”でもある、このデジタル編集環境を、つくり手個人のイマジネーションや詩情を高い濃度で反映させ得るスタイルの一つとして味方に付け、これからもプライベートな制作を重ねて行こうと思っています。
ノルシュテイン氏の高みは今はまだ望むべくもありませんが、その制作の歩みと姿勢を精神的な支えとしつつ、自分の高みを目指したいものです。