これは内在しているストレッサーなのか?

思うに、「生の自分」をさらけ出すことに大きな抵抗を感じているのかもしれません。実際、人前で即興演奏をしたりすることには昔から強い拒否感を持っていましたし、作曲の実際の様子を見られるのも勘弁願いたいです。

言うなれば、「自分というシステム」が作動している様子を人に見られたくないということなのかもしれませんし、その意味では生身のパフォーマーでは決して在れないのでしょう。

何かに没頭している自分、我を忘れている自分、「自分には見えていない“現在”の自分」を見られることへの抵抗──。「いやあ、未熟なもので恥ずかしくて」という慣用句の背後にあるもの。

もしかすると、こういった言説を用いて別の恐れを無化しようと抗っているだけなのかもしれませんが。つまり、パフォーマーとしての在り方への未練なり、それへの対峙の不徹底に対する自らへの異議申し立てとか。

考えてみれば、作曲という営みは他者と共有する時間軸からは遊離したところでコンポジションできるわけで、擬似的・観念的には自分だけの時間の世界で佇むことができる、ということすら言えます。

この両極端の位置づけから見えてくるもの、そのあいだの領域にあって気づいていないもの。そういったことに注意してみるのも良さそうです。