「続・作曲を見つめる」 第一章:音と意味との関係

先のコラム「作曲を見つめる」では、作曲という行為の「運動そのもの」についてモデル化を試みましたが、今回の「作曲を見つめる part II 」ではその運動を取り巻く環境や現象の捉え方について考え、そこからまた作曲という行為へフィードバックさせてみようと思います。言うなれば「何故音楽による共感が可能なのか、音楽の特殊性はどこにあるのか」という疑問について考えてみようということです。

別のコラムでもお話ししましたが、我々作曲者は音楽学者ではありません。論理的整合性や科学的検証から自由な立場から、作曲について考えることが許されると思います。何故なら、その目的は科学への貢献ではなく、純粋に作り手が望む音楽を創り出すことにあるからです。当人の作曲行為にとってどの様な意味があるのか、という点に興味があるのだと言えます。

その意味においては、この「 part II 」の目的は「”音楽によって共感できる”ということを肯定する物語を創る」ことだと捉えることが出来ると思います。問題は、その物語を自分の内に引き受け、いかに音楽を生み出して行くかでしょう。常にその後の行為が問われるのだと思います。

それでは本題に入りたいと思います。一般に、作曲というのは音楽を創ることだと言えるのですが、そこから音楽とは何かと問い始めると、途端に思索の迷路に迷い込んでしまいます。ですので、ここではそのことを保留し、「音楽体験」にスポットを当てることから始めることにします。音楽を聴くことを重ねることによって得てきた経験をスタート地点にし、そこから音楽の奥底へ降りて行ければと思っています。

ここでいう音楽とは隠喩としての音楽(例えば「森を吹き抜ける風の音は自然の音楽だ」等)は含まず、具体的に「あなたの創っているものが音楽」であるとします。そして、便宜上「器楽曲」に限定し、歌は含めないこととしておきます。

また、「どこからどこまでが作曲なのか」といった創作の境界領域の問題にも触れないことにします。この点を考慮し出すと、いわゆる「ジョン・ケージ問題」に囚われてしまい、作曲行為そのものへの懐疑に繋がり、混乱をきたす恐れを感じるからです。ジョン・ケージは、音楽の本質的問いを白日の元にさらしたという点において、いずれ対面(対決)する相手だと思いますが、今回は、私や皆さんの日頃の「音楽体験」を立脚点として、経験との照らし合わせを大切に考えて行きたいと思います。

さて、これから考えを進めて行くに際して、音楽体験の要である「音楽を聴く」ということについて、ある程度考えておく必要があると思います。音楽の作り手も聞き手も、音楽に関わる人々は皆、この「聴く」ことを抜きにしては始まらないからです。そこで、音楽もその他の音も同じ「音」だとした上で、まず「音楽だと感じる音」について考えてみようと思います。

さて、音楽は物理的な見方をすれば音から成り立っていると言える訳ですが、人はどんな音を聞いた時に音楽だと感じるのでしょうか。人は音楽を聴くときには音を聞いているだけなのでしょうか。私達は日常様々な音を耳にしていますが、「単なる音」と「音楽だと感じる音」とはどの様に区別しているのでしょうか。

「音楽だと感じる音」の特徴とは何でしょうか。今までの経験による素朴な感想として、例えば、それを耳にすると心動かされるものだと言えます。そこに込められた何かがこちらに伝わってくるものだ、とも言えるでしょう。

音楽を聴くときには、積極的にそこから何かを感じ取ろうとしたり、音楽から自然に伝わってくるものを感じたりという風なことをすると思います。そういった経験から、確かに音楽には何かが在るように思われるのです。そこで、音楽のことを「音で何らかの意味を伝える、言葉のようなものだ」とする考えが生まれてきます。

しかし、音を通じて伝えられる意味には、次の様なものがすでに存在していることに気付きます。それは「語音(発音された言葉)」や「日常音(具体音)」を通じてのものです。

言葉はそのものずばり、意味を伝える為のものです。「私は楽しい」と言えば、聞き手には「私は楽しい」という意味を具体的に伝えられます。日常音も、例えばガラスが割れる音が示す様に、「或るガラスが割れたこと」という具体的な意味を伝えます。

これら音には、ある共通する特徴があります。それは、意味を指し示す側(これら音)と意味それ自体(伝えたい概念、ガラスの存在)が別々の存在としてあり、かつ、それらが結び付いているという点です。

「私は楽しい」という言葉に「楽しさ」という気持ちが含まれているのではなく、その言葉は、「私」という発言者に「楽しさ」という気持ちが存在することを指し示していると考えるわけです。これは、「私は楽しい」と紙の上に書かれた物を想像すると解かりやすいと思います。「楽しい」のは「私」なのであって、その「文章」そのものではないのですから。この様に、意味を指し示す言葉と意味(気持ち)それ自体は別だということです。

このことを別の視点からまとめると、人は「語音」と「日常音」を、具体的な対象が存在することの「間接証明」として耳にしている、という風に言えると思います。

つまり、ガラスの割れる音は、その音を耳にした人に対して「ガラスが割れたこと」を間接的に証明しています。そして、気持ちを表す言葉は、その言葉を耳にした人に対して「発言者の気持ちの在り様」という「伝えたい概念」の存在を間接的に証明しています。そして、そのとき人は、音を聞くことを「手段」にして、音以外の「何か」を理解しようとしているのだと言えます。

ということは、「語音」や「日常音」を聞くこととは、「具体的な対象」という、音の世界以外に存在する「何か」を知るための手段だということです。

次は、この様な「語音」や「日常音」の特徴を踏まえ、私達が日頃音楽だと感じている音について考えてみたいと思います。

「第二章:音楽だと感じる音」へ続く。