つぶやき的な

自分にとっての作曲という行為が、イマジナリーなものの音響表現としてではなく、作曲装置(楽器などの演奏環境など)によって規定される枠内での可能性表現に転倒してしまっているのではないか、という自問。

と同時に、その転倒状態は創作の足場としての安全地帯をもたらしてくれているのかもしれないという事実。