仏つくって魂入れたい

昨今のテクノロジー進歩によって、音楽を形作ることがとても容易になりました。コンピュータ上で音素材の操作と評価というフィードバックを続けることにより、音楽が生み出され得ます。

実際に音楽として目の前に現れるために必要なプロセスや労力(各種技術、演奏人脈、制作環境など)は、現在では相当少なくなっていますし、DTM(デスクトップ・ミュージック)という単語にはそのことがよく象徴されています。

音楽を形作ることが容易になった、プロセスが簡便になった、そのこと自体はとても喜ばしいことですし、私自身、そのことの恩恵をタップリと受けている一人です。

しかし、その恩恵の影で露わになってきたこともあります。ネット上を中心に散見される批判的な言説として印象的なのは、言葉は少々悪いですが「“音楽をでっち上げること”もまた容易なことになったのだ」という指摘です。

いわゆる「仏造って魂入れず」の状態が生まれやすいのではないか、そんな意図を持った指摘です(わが身を振り返り反省、反省)。

聴き手からの評価が悪く、同時につくり手も何か不満足で、ただ端整に形作られた音楽の姿だけが屹立する状況。

また、出来上がりがある種の完成度を感じさせ、聴き手の評価も好ましい。それなのに、つくり手に何とも言えぬ不全感がまとわりついてしまう状況。

それらに通底するものは何かと考えていたとき、ひとつの言葉に出会いました。臨床心理学者のロロ・メイによる著書『創造への勇気』の一節にこうあります。

「創造性とは、“徹底的に意識的な人間”と“当人の住む世界”との出会いである」

“当人の住む世界”とは、“自分の世界”と漠然と言ったときに想起される「心のマイ・ワールド」のことや、生きる時代・環境としての外世界のこと、そしてそれら“世界”と自我との関係性そのものを指していると考えられます。

例えば私の場合、「テクノロジー発展の時代だからこそ可能だった制作手法と音楽」を包含したこの世界との出会い。自分の望む音楽の具体的な姿を生み出そうとすることを通じた、多様な音楽世界との出会い。そして「それらの世界で喜べる自分」という内的世界との出会い──等など。

作曲を始めて間無しの頃に私が強く感じていた楽しさや喜びとは、それら出会いがもたらしたものだと思いますし、その後、不全感を感じていたときには、そういった出会いのダイナミズムは欠けていたのでしょう。

一曲作り終えて、当初の構想通りであれ予想外であれ「ああ、自分はこういう音楽を創りたかったのか」と得心することがあるならば、そこには紛れも無く“当人の住む世界”との出会いがあったのだと思います。

こういった“世界との出会い”が無いまま、ただ目的地にたどり着いた時、そこには「でっち上げられた音楽」が綺麗で無残な姿を露わにすることになるのではないか、とそう思わされます。

もちろん最初からでっち上げようという作曲者はいませんし、恐らく「でっち上がってしまう」のでしょう。ただ、そのことは何らかの不全感としてジワジワと自覚されるのだと思うのです。

ちなみに、誤解を避けるために述べておきたいのが、コンビニエンスな作曲自体に非難されるべき点はないということです。むしろ、「世界との出会いのチャンネル」を渇望していた多くの人たちにとって、大きな福音となっているのですから。

ここで取り上げているのは、あくまでもつくり手の不全感が生じる理由やその正体に関することであり、この時代の制作環境が奇しくもそれをあぶり出しやすい(音楽がでっち上がってしまいやすい)という点なのです。

ところで、「聴き手からの評価は悪く、しかしつくり手は納得」という状況…これは永遠の課題ですね(笑)。でも、その仏に魂が入っている(出会いの軌跡がある)と信じられるのなら、それを続けて行けば良いのだと思います。

改めて“世界との出会い”の軌跡を深く刻んで行きたいものだと襟を正しつつ、この文章を一先ず締めくくりたいと思います。