作曲後に襲い掛かってくる疲労感~『大作曲家があなたに伝えたいこと』を読んで
本書は、百人に及ぶ作曲家の、作曲に関する発言をまとめたものです。それぞれの発言に対して、音楽学者である著者がコメントを添えています。その内容は、作曲家の紹介や、時代背景、創作活動に対する考察といったもので占められており、各発言の重みや洒脱さといった雰囲気が面白く、読み物として楽しく、得るもののある本になっています。
その発言にはハッとさせられることも多く、作曲について考えるきっかけとして重用しています。読書一般に言えることですが、読み手のそれまでの経験や精神状況によって、同じ本でもそこから読み取られるものは千変万化するものです。本書においても、今まで興味の薄かった発言が俄かに意味を持ち出すことがあります。同じ作曲家という人種の発言の内に、志を同じくするものや、心のもやもやを言い当てられた様なものがあると、不思議な連帯感を感じるものです。
さて、作曲をしたことのある方ならば大抵は感じられたことがあるであろう、「作曲直後の疲労感」に関しては、意外と表立って述べられていない様に思います。「創作者たる者、疲れと称してその歩みを止めるようなことは有り得ないはずだ」とか、「創作者とは止めど無く溢れる創造力の持ち主なのだ」という強硬な意見が存在するのもまた事実であり、それが抑止力となって一種の「弱音」を封じ込めているのかもしれません。
しかし、注意深く見てみると、作曲に限らず様々な創作者達が「疲れ」の存在を吐露しています。有名なところでは、アニメ映画監督の宮崎駿氏が、長編作品を完成させるたびに「疲れたから、もう大作映画は作らない」と公言しています。「もののけ姫」の完成直後にそう言いながらも「千と千尋の~」をつくり上げ、その完成後にも同様の発言をされていますが、きっとまた大作をつくり上げて行かれることでしょう。
本書において、作曲家のアルベール・ルーセルも次の様に語っています。
作曲家が、ひとたび彼のスコアに最後の音を書き下ろしてしまえば、彼は次の仕事にかかる前に、休息のときが必要であると感じるでしょう。これは知的な緊張を必要とするあらゆる仕事についていえることです。 (p118)
これらの「疲れた状態」は、一種の「燃え尽き状態」なのでしょう。ある作品の完成を目指して、それに掛かり切りで取り組み、もう注ぎ込めるものが無くなった時に「やるだけのことはやった」という感慨が生まれ、一応の完成をみる。その時、上記のような疲れを感じるものだと思います。
しかし、世の中にはつくってもつくっても疲労すること無く、よどみなく作品をつくり出す人達がいることも事実です。それはまるで、創作している態度そのものが表現であるかの様です。このことに関して面白い例えがあります。「作品は創作者の排泄物である」というものです。
表現は過激ですが、その意味するところは非常に分かり易いものです。日常、食事をする様に世の中のことを吸収し、それが作者の内で消化され生きざまとなり、「生き物としての作者」の”命の証明”の様に、排泄物がその後ろに作品として残されるのです。そういう創作者には、作品の面白さと共に人柄の面白さも併せ持っていて、もはやトータルで接しなければ意味の無いものなのかもしれません。
さて、疲れを感じる場合をもう少し見て行きましょう。あるひとつの作品づくりは、山登りに例えられると思います。ある作品の作曲を始める時というのは、山のふもとにいるのと同じです。これから登る山を見上げ、その高さにひるんだり、楽勝だと高をくくったり、手持ちの道具を確認したり、というようなことをしつつ、いよいよ登山を始めることになる訳です。
つまり、作曲するということ自体が、今以上の高みを目指した過酷なアタックであるならば、頂上に立って無事下山した時に大きな疲労を感じたとしても、それは無理も無いことでしょう。下手をすると、山頂に到達できないかも知れず、つまり完成させることが出来ず、まさに徒労を感じてしまうことがあるかもしれません。
作曲後に「もう作曲はしたくない」とか、「作曲することはもう無い」と感じることがあったとしても、それは創造力の枯渇ではなく、果敢に登山に挑戦したという証拠なのだと言えるのではないでしょうか。そして、そのことが自信にもつながると思います。この様に、疲労感の出どころを考えてみると、自らの作曲に対する姿勢が垣間見え、自分の作曲に対する理解が深まるのではないでしょうか。
書籍情報
『大作曲家があなたに伝えたいこと』
千蔵八郎 著
出版社:春秋社(ISBN:4393937465)
1998年12月20日第1刷発行
サイズ:219ページ