「作曲を見つめる」 第三章:作曲という行為のモデル化

(このページは「第二章:情感の揺れ動き」からの続きです)

最初に「作曲という行為」=「ひらめきを音楽に変換する装置の働き」のことについてまとめておきます。この装置の中身は、音楽に関する技術(音を操る技術。演奏技術、作編曲技術、理論的解釈技術など)と、その技術から生まれた「音」に美的判断(経験則)を加える、主観的な心の働きから成り立つと考えられます。

ある作曲者の頭に何かがひらめいたとします。そしておもむろに、ある和音を弾きました。この、「ある和音」がどのようなものであるかは作曲者の「変換する装置」の違いによるわけです。ある人はFのメジャー・コードを弾くのかもしれませんし、特殊なハイブリッド・コードを弾くのかもしれません。和音のことを知らない人なら、和音ではなくメロディー等を弾くのかもしれません。とにかくその人の技術で表現できる何かが現れます。

こうして弾いた和音を聞いて、彼はメロディーを考え始めたようです。想像力を駆使してあれこれ考えています。しかし、「誰も見たことの無い、想像もつかないものは、誰も想像できないことに気が付いた」という故キューブリック監督の逸話の様に、彼の作り出すメロディーは、過去の経験と記憶の積み重ねの上に成り立つものと考えられます。一見、思いも寄らないものが出来たときも、そのメロディーが生み出される素地は、自分の過去の中にあるものだと思います。

彼は色々なメロディーを試していましたが、やがてあるものに落ち着いてきました。この間、彼の中では様々な情感が生まれ、価値判断を繰り返したことでしょう。この状態を「技術的方法と情感との交わり」と呼ぶわけです。大分まとまってきましたが、一ヶ所迷っているところがあるみたいです。その一ヶ所を「ミ」にしようか「ソ」にしようか悩んでいる様子です。何度も聞き比べながら考えています。このときの彼の中では、繊細な情感の揺れが起こっていることでしょう。

この様にして彼の作曲は少しづつ進んで行きました。サブメロディも付いたりと、演奏パートも増えてきました。あるときは、ブラス・セクションのボイシングをまず技術的に処理し、聞いてみて気になる部分を手直ししたりしています。ここでも一種の「技術的方法と情感との交わり」が生まれています。「理論的にこうすべきだから」などと硬直した考えは持ちたくないものです。

彼は曲のある部分で、彼にとって始めての技法を実践しようとしています。ある技法を拡大解釈することによって、不思議なサウンドを作り出そうと考えたのです。早速試してみたところ、気に入るようなサウンドになりません。少しづつ変えてみても結果は思わしくありませんでした。結局はあきらめましたが、今回の実践から得た経験は彼の技術にフィードバックされ、次の新たな試みの糧となることでしょう。

こうして彼の技術は積み重ねられ、実践によって鍛えられ、そして豊かになっていきます。そんな向上を続ける彼の元にひらめきが降りてくるとき、そのときはどんな「音楽への変換」が行われるのでしょうか。興味が沸くところです。

ちなみに、即興演奏でも同じことが起こっていると考えられます。ただ、リアルタイムに音楽が進んでいきますので、作曲のように考え込んでいられません。いっそう、その人の経験に裏付けられた技術が大きな要素となるでしょう。そして「技術的方法と情感との交わり」もダイナミックかつ繊細なものとなり、「ひらめきを音楽に変換する装置の働き」は激しさを増します。

経験に裏付けられた技術によってひらめきを音に換え、めまぐるしく起こる情感の揺れを感じ取り、演奏にフィードバックさせ、新たな音を表現する。新たに起こる情感の揺れを感じ取り、またフィードバックさせる。そこへ時折ひらめきが舞い込み、また新たな音が生まれる。演奏者の心の中は、このような状態であろうと思うのです。

あるときはひらめきが音になり、あるときは実践に裏付けられた技術で音を組み立てる。ともに背景にあるのは当人の「音楽的経験の総体」です。それは、今までどんな音楽を聞いてきたのか、どんな音楽を作ってきたのか、どんな演奏をしてきたのか、それらを通じてなにを感じ取ってきたのか、なにを感じ取ろうとしてきたのか、といった様々な実践結果の総体です。

「音楽的経験の総体」が豊かになれば、「ひらめきを音楽に変換する装置」はより様々な機能を発揮し、また「技術的方法と情感との交わり」もその豊かさを増すことでしょう。

もし、作曲者の音楽性というものに優劣を付ける事がゆるされるのなら、それは、「音楽的経験の総体」を土台として、どれだけ豊かな「技術と情感のフィードバックを持った変換装置」が育まれているか、という点によるのではないかと思います。注意したいのは、変換装置の「豊かさ」というのは、あくまで「豊かさ」であって、「技術的複雑さ」でもなければ「理論的高度さ」でもないことです。もちろん、それらが含まれることは大いに有り得ますが、その方向だけを指したものではないということです。

最後に、忘れてはいけないのが、その変換装置によって「どんな音楽が表現されたのか」が一番大切だということです。ある曲を作ろうとするときのコンセプトの質が、作品の出来を保証することはありません。聞き手は、作者の観念や概念を理解するのではなく、まず音楽そのものを聴くのですから。その後、作品と作者に興味を持った聞き手はそれらを知ろうと欲するでしょう。コンセプトについて夢想することの楽しさはクリエーターならわかります。しかし、「技術的方法と情感との交わり」のさなかに息づく、作曲の楽しさと苦しみというリアリティには敵わないでしょう。

終わりに

以上、ひらめきをキーワードにして変換装置という仮説を立て、私なりに作曲という行為のモデルを提示することを試みてきました。

作曲に長けた人に共通することは「自分の出す音をよく聞いている」という、なんとも当たり前のことでした。また、人間には「思考のフィードバック」という仕組みがあり、一歩間違えば妄想になってしまいますが、この仕組みのおかげで深い思索を行うことが出来ます。作曲という、とても感覚的でとても論理的な行為を捕まえるために、この二つの点を用いてみました。脆弱な文章ですが、なんらかのお役に立てれば幸いです。(終)