「作曲を見つめる」 第一章:ひらめきについて

(このページは「はじめに──」からの続きです)

よく耳にする言葉に、「作曲はひらめきだ」とか「良いメロディーがひらめかない」とか「ひらめくのを待とう」とか、また、「音楽は天からの授かりもの」という様なものがあります。最後の言葉などは、モーツァルトの伝記に出てくる、「完成された形で天から降りてくる」という逸話をイメージされる方も多いのではないかと思います。

さて、モーツァルトの話の真偽はさておき、たしかに作曲という行為にはひらめきというものが関わっていると言えます。「なにか」が頭に降りてくるというのもまんざら嘘ではないと思われます。では、例えば作曲の初心者が「さっぱりひらめかないよ。自分には才能がないのかな」と感じているならば、それは諦めてもらうしかないのでしょうか。

いいえ。ここに作曲、ひいては創作全般に対する大きな誤解が潜んでいるのではないかと私は思うのです。以下は、作曲という行為を理解するための、ひとつのモデルの提案です。まず最初に、作曲というものを次のように仮定できないでしょうか。それは、作曲というものは、不定形のなんだかわからない「なにか」がひらめいたとき、それを具体的な音の世界に変換する技術のことだと考えよう、というものです。

言い換えるなら「作曲する」という行為は、自分の中に持っている「ひらめきを音楽に変換する装置」を働かせることだ、ということになります。この仮定を拡大して適用すると、絵を描くことなら「ひらめきをキャンバス上に変換する装置」を働かせることだと言えますし、彫刻なら「ひらめきを立体に変換する装置」を働かせることだ、となります。

例えば、ヨーロッパ文化圏から遠く離れ、言葉も異なる地に住む人の頭の中に突然、キリスト教の讃美歌がラテン語でひらめく可能性はどの程度でしょうか。やはり讃美歌を作れるのは「ひらめきをラテン語に変換する装置」や「ひらめきを西洋音楽に変換する装置」などを持つ人、つまりラテン語を操る技術を持っていて、西洋音楽の作曲技術を持っている人でしょう。

そして、出来あがった讃美歌がどのようなものかが問題なのであって、その作者にどのようなひらめきがあったか、ということは大抵別問題でしょう。そのことが話題に上るのは、名作だと感じた人々の間で「素晴らしいひらめきがあったに違いない」と思わずにはいられない、そのような時でしょう。いくら作者が「ひらめきまくった最高傑作」と自画自賛しても、聞いてみてどう思うか、ということを抜きにすることは出来ません。

ここで注目して欲しいのは、「ひらめき」自体が何なのかではなく、それがどのように表現されたのかを問おうとしている点です。作者の「変換する装置」を経た結果(作品や演奏表現等)を人々と共有しているのであって、作者の「ひらめき」そのものを共有しているのでは無いと考えるのです。

こう言うと、こんな声が聞こえてきそうです。「たしかに私の頭に具体的なイメージがひらめいたのだ。ひらめきは具体的なものだし、そこから生まれた作品を人々と共有しているのだから、ひらめきを共有しているのだ」と。その通りと言えばそれまでです。それに、自らの意思によって自由にならない「ひらめき」というものに、畏敬の念を感じます。本当に「具体的な音楽」が降臨するのかもしれません。

しかし、自ら努力を重ねて「向上しよう」と欲する気持ちがあるならば、それをどの方向へ向ければ良いのかを考えた結果として、ここに仮説を立てているです。このような経緯をご理解いただいて、もう少しお付き合い下さい。

では、一体「ひらめき」とは何なのでしょう。それは例えるならば、「あらゆる創造性の種(たね)」のようなものではないでしょうか。

この種はどこに落ちているのか、たくさん落ちているものなのか。それは誰にもわからないことでしょう。それどころか、種そのものを見たことが有る人はいるのでしょうか。しかし、肝心なのはその種を手にしたとき、つまり「ひらめいた」ときにどんな音楽を作り出したかなのです。そして、上の文章でひらめきのことを「不定形のなんだかわからない、なにか」と表現しているように、私はこの種には具体的ななにか(例えばメロディーや和音、曲全体のイメージ等)は込められていないと思っています。具体的な何かは、そこから作者が生み出すものなのです。

さて、作曲からひらめきという要素を除いてみると、作曲というのは技術的な側面を多く持っていることに気付きます。言い換えれば、曲を成り立たさせる要素を作り、それらをまとめ上げる技術、といえるでしょう。それは、手工芸などの名工と呼ばれる人達の、その熟練の技と同じ質を持つものです。そのような研ぎ澄まされた技の元に「不定形のなにか」がひらめいたとき、創造性の種を手にしたとき、その人流の音楽への変換が行われ、個性を持った作品が完成するというわけです。

仮に、同じひらめきが作曲未経験者のもとに降りてきても、上記の名人と同じものが出来上がることが無いということは想像に難くないでしょう。これは、アフリカ現地人と讃美歌の例と同じことです。

先のモーツァルトの話で考えると、彼は幼少からピアノの演奏や作曲の手ほどきを受け、技術的な素地はすばらしいものであったと思われます。まさに早熟の名工といったところです。そんな彼のもとに「なにか」がひらめいたのです。そして彼はその「なにか」をきっかけに具体的な音楽を作り上げていったと思われます。彼自身にとっては次から次へと天から音楽が降りてくるようだったのでしょうが、それも今までの修練、実践から得た経験の賜物であり、言い換えるなら「ひらめきを音楽に変換する装置」の優秀さゆえであったということです。

もし最初から、誰も思いつかなかったような斬新で革命的な音楽が、いつか頭の中に降りてくると解っているのなら、だれも作曲のことを探求しようとはしないでしょう。ただひたすら、ひらめくのを待てば良いのですから。それはまるで、現代日本に居ながら白馬の王子様が求婚して来るのを家で待っているかのようです(しかし、ここでも奇跡の存在は否定しませんが)。

それならば、作曲の技術的な面の習熟に徹していれば、いつかは素晴らしい、本人も周囲も納得のいく作品が出来上がるのでしょうか。自分の中の「ひらめきを音楽に変換する装置」を、より複雑高度なものにしていけば良いのでしょうか。次はこのことについてお話しします。

「第二章:情感の揺れ動き」へ続く。