ようこそ“作曲する言葉”へ。

音楽に関する本のレビューと、作曲をテーマとしたコラムを掲載しています。

最近の記事

「続・作曲を見つめる」 第四章:作曲によって伝えられること

(このページは「第三章:音楽音が伝えるもの」からの続きです。)

これまでに行ってきた考察をもとに、作曲によって伝えられることについて考えてみます。伝えられることを考えると言っても、その全体を具体的に捉えようということではありません。音楽という広大な世界の中のほんの一部を、これまでのことから想定してみようという訳です。 続きを読む »

「続・作曲を見つめる」 第三章:音楽音が伝えるもの

(このページは「第二章:音楽だと感じる音」からの続きです。)

私達が音楽だと感じている音が、日頃耳にする「語音」「日常音」とはその性質、在り方が違うことを見てきました。そしてその音を「音楽音」と呼ぶことにし、ここではその意味するものについて考え、「音楽を聴く」ことに迫ってみようと思います。 続きを読む »

「続・作曲を見つめる」 第二章:音楽だと感じる音

(このページは「第一章:音と意味との関係」からの続きです。)

「語音」や「日常音」の特徴がある程度解かったところで、次に、日頃音楽だと感じている音について見ていきたいと思います。 続きを読む »

「続・作曲を見つめる」 第一章:音と意味との関係

先のコラム「作曲を見つめる」では、作曲という行為の「運動そのもの」についてモデル化を試みましたが、今回の「作曲を見つめる part II 」ではその運動を取り巻く環境や現象の捉え方について考え、そこからまた作曲という行為へフィードバックさせてみようと思います。言うなれば「何故音楽による共感が可能なのか、音楽の特殊性はどこにあるのか」という疑問について考えてみようということです。 続きを読む »

回答法という回答~『コード・スケール ハンドブック』を読んで

※『コード・スケール ハンドブック』の内容紹介はこちら。

スケール(音階)に関する理論の多くは次の様な要請から生まれています。ある和音が鳴っているとき、旋律にはどのような音の可能性が有るのかというものです。逆に、旋律から和音の可能性を導くことも考えられます。しかし、これらはスケール概念の一側面に過ぎないのですが、多くの本はこの先までは触れません。大抵、「長調の I 度の和音にはイオニアンかリディアン・スケールが用いられる」といった対応を示して、コードとスケールの羅列に終始しています。 続きを読む »

ワイルドカード・コンセプト~『リディアン・クロマティック・コンセプト』を読んで

※『リディアン・クロマティック・コンセプト』の内容紹介はこちら。

作曲者が様々な体系的な音楽理論に触れることのメリットには、作曲時の音楽的思考に際して様々な音楽イメージの座標系(ものさし)を持ち込めるというものがあるでしょう。逆にいえば、体系的な音楽理論(作曲法タイプ)というものは、発案者の音楽イメージに現れる傾向を、システム(理論体系)にまで高めたものだということが出来るのではないでしょうか。 続きを読む »

新たな調性世界を求めて~『ブルー・ノートと調性』を読んで

※『ブルー・ノートと調性』の内容紹介はこちら。

「ブルース」という音楽に対する疑問の数々は、「ブルー・ノート」に対する疑問として集約されるでしょう。今までにも数々の音楽家や音楽学者らによって様々な形で解明しようとされて来ました。しかし理論的追求を行うと、その音楽としての魅力はたちまち失せてしまい、単なる観察結果になりがちで、ブルースという音楽を捉えるには至っていません。結局、ただ指をくわえて音楽に浸るしかないものでした。 続きを読む »

和声症候群のこと

和声と言ってしまうと、ある限定されたものを想像してしまいますが、この場合の和声とは「音の集合の移ろい」という大雑把なものだと考えてください。 続きを読む »

呪縛に想う

以前、私が作曲をしていて思い煩う事が多かった呪縛と言えば、「表現したいことがあるのか」というものでしょう。これはどういうことかと言いますと、まず頭の中に明確なイメージ(音的なものに限らない)があって、それを音で表現しようと勤めるべきだという、そんな呪縛です。 続きを読む »

「作曲者から見る音楽理論」 第二章:素材として、ものさしとして

(このページは「第一章:理論という名の物語」からの続きです。)

続いて、「編曲法タイプ」の理論についてです。

このタイプの特徴は、その多くが「経験論」から成り立っていることです。つまり、その理論の立案者の経験から導き出された価値体系が表わされていると考えられるのです。仮に、その理論の前提となるもの(音響物理学や認知心理学など)の根拠が危ういものであったとしても、その「編曲法」から得られる効果が活用者にとって有用でさえあれば、その存在価値は十分であると考えます。 続きを読む »

「作曲者から見る音楽理論」 第一章:理論という名の物語

まず始めに、辞典から「理論」と「法則」という言葉について調べておきます。あらためて調べてみると、音楽というものから受けるイメージからは程遠い言葉が並びます。 続きを読む »

「作曲を見つめる」 第三章:作曲という行為のモデル化

(このページは「第二章:情感の揺れ動き」からの続きです)

最初に「作曲という行為」=「ひらめきを音楽に変換する装置の働き」のことについてまとめておきます。この装置の中身は、音楽に関する技術(音を操る技術。演奏技術、作編曲技術、理論的解釈技術など)と、その技術から生まれた「音」に美的判断(経験則)を加える、主観的な心の働きから成り立つと考えられます。 続きを読む »

「作曲を見つめる」 第二章:情感の揺れ動き

(このページは「第一章:ひらめきについて」からの続きです)

それならば、作曲の技術的な面の習熟に徹していれば、いつかは素晴らしい、本人も周囲も納得のいく作品が出来上がるのでしょうか。しかし、ここには大事な要素が抜けています。それは、自分で作った音楽を聴いているときの、情感の揺れ動きです。そして、その情感の揺れ動きに対して、あなたはどんな価値判断をするのでしょうか。 続きを読む »

「作曲を見つめる」 第一章:ひらめきについて

(このページは「はじめに──」からの続きです)

よく耳にする言葉に、「作曲はひらめきだ」とか「良いメロディーがひらめかない」とか「ひらめくのを待とう」とか、また、「音楽は天からの授かりもの」という様なものがあります。最後の言葉などは、モーツァルトの伝記に出てくる、「完成された形で天から降りてくる」という逸話をイメージされる方も多いのではないかと思います。 続きを読む »

はじめに──

作曲という行為は、作曲者にとっても、また周囲の人にとっても、「なぜそれが出来るのか分からないもの」という風に捉えられることが多い様に思います。作曲においては、他の表現(絵画、造形、演劇等)に比べて「ひらめき(インスピレーション)」が重視される傾向がありますが、これは「作曲行為の不思議さ、分からなさ」の裏返しなのではないかとも思えます。 続きを読む »

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